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中国・漢語教育の強化政策に穴? 元朝での人材登用から考える

 今年の全国人民代表大会(全人代)で、習近平国家主席が真っ先に足を運んだ分科会は、内モンゴルだった。昨年からモンゴル族など少数民族地域において、漢語教育を強化する政策を推し進めているからだ。(拓殖大学名誉教授・藤村幸義)

 内モンゴルの草原都市、シリンホト(錫林浩特)を訪れたことがある。どこまでも広がる草原を馬の群れが縦横に駆け回っている。モンゴルの移動式住居「パオ」で、ごちそうになった。羊一匹をまるごとゆでた料理が出てくる。馬乳酒で乾杯すると、モンゴル族の若者が日本の民謡のような調子で、朗々と歌い出した。

 地元の小学校を参観した。もちろん教科書はモンゴル語だった。その小学校は中国でも珍しいことに、日本語を必修の授業に取り入れていた。生徒たちは、日本語はモンゴル語と言葉の配列が似ていて学びやすい、と言っていた。漢語の授業もあったのだろうが、それほど重要視されている様子はなかった。

 これまで中国政府は、少数民族の文化や習慣は十分に尊重すると約束してきたはずである。有無を言わせずに同化政策を進めるよりは、ある程度共存した方が有利と考えたからだ。

 かつてモンゴル族が建立した元朝では、漢族をどのように扱ったかを想起してみたい。初代皇帝となったフビライ・ハンは、積極的に宋時代の漢族幹部の登用を推し進めた。人口数で勝る漢族を統治していくには、宋時代の仕組みを全て捨て去ることができなかったのは確かであろうが、それだけでは片付けられないものがある。

 書家としても有名な趙孟フは、任官を呼びかけられた一人だった。彼は宋の皇族の出身だったので、最初は断ったが、フビライ・ハンに何度も呼びかけられて、出仕を決意した。宋時代のかつての仲間からは、裏切り者扱いされたが、それでも趙孟フはじっと耐えて、元朝のために尽くした。

 元朝ではさすがに科挙制度は停止され、儒教・儒学も衰えはしたが、決してモンゴル族の文化や制度を押し付けたわけではなかった。貴族的な文化に代わって庶民的な文化が発展するきっかけともなった。東西交流の活発化で、キリスト教やイスラム教の文化も入ってきた。

 国家をまとめていくには、単一の言語のほうがやりやすいのは確かであろう。だが、多元的な文化や制度の存続が、発展の原動力になり得ることも忘れてはならない。

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