タイ最北部で蕎麦栽培17年 在留日本人「村人の生活を向上」

2017.2.17 05:00

 タイ最北端の山岳部にあるチェンライ県で日本原産の蕎麦(そば)の実を栽培している日本人がいる。北海道出身の井上和夫さん(71)。栽培を始めて今年で17年目になる。ひき立ての蕎麦の評判は口コミで広がり、今では首都バンコクから人づてでひっきりなしに注文が来る。国内には3000店もの日本食店がひしめき合うタイで、日本伝統の「和」の味を一身に支えている。山間の一面に広がる蕎麦畑を訪ねた。

 ◆2年間は実りなし

 間もなく年の瀬を迎えようかという11月。乾期に入り、蕎麦の種まきの季節をちょうど迎えたところだ。井上さんの蕎麦畑は平野や山間部など全部で50ライ(1ライ=1600平方メートル)。コメの二毛作が終わった後の農地が、蕎麦の耕作用地に変わる。ここに日本原産の蕎麦の種をまいて2カ月近くが経過した頃、鮮やかな黄緑色の茎から伸びた白い蕎麦の花が一面に咲き乱れ、収穫の時期を迎える。

 「ここに至るまでは失敗の連続。非常に長い道のりでした」。井上さんがしみじみと振り返る。初めの2年間は花が咲いても全く実が結ばず、暗澹(あんたん)たる気持ちとなった。いろいろと原因を調べてみてようやく分かったのが、乾期はほとんど雨が降らない地方に特有の気候が災いしていたということだ。ただ、雨の多すぎる雨期は蕎麦が立ち枯れてしまう。水対策が大きな壁として立ちはだかった。

 次なる難問は、チェンライの地でも深刻となっていた農薬の影響だ。付近一帯は大規模な穀倉地帯。農家は生産性を高めようと安易な農薬頼りに走った。結果、本来なら花の交配役を担うはずの虫が減少した。蕎麦の栽培も、キューピッド役の虫が不在であれば、愛の結晶は実らない。これだけのことが分かるまで3年近くを費やした。

 井上さんにとって蕎麦生産は、もともと事業として取り組んだわけではない。タイ人の妻とチェンライでのんびり暮らしていた。転機となったのは、近くのドイトン山近郊でタイ王室が手がけたプロジェクトだ。蕎麦のテスト栽培が行われることになり、知人から「手伝ってほしい」と要請を受けた。「人助けのつもりで始めた」(井上さん)

 ◆今や引く手あまた

 稲作以外に仕事のない村の仲間に仕事を提供できるのではないかとも考えた。重労働の蕎麦栽培はとても1人ではできない。そこで、村人に声をかけ、仕事として栽培作業を手伝ってもらった。ところが、手間のかかる農作業に村人は戸惑った。

 この地方では、種籾(たねもみ)をまけば、後は収穫までほったらかしの稲作農法が当たり前。蕎麦栽培の概要を説明して納得してもらったつもりでも、翌年はまた一から同じことの繰り返しだ。

 こうして数年後。ようやく玄蕎麦は収穫できるようになったものの、テスト栽培はその先のことが全くの白紙だった。山積みになった玄蕎麦の袋を前に、皆で途方に暮れた。「粉にして出荷してみるか」と井上さんが腰を上げる。だが、ひき臼(うす)すらない状態だ。井上さんが四方八方に手を尽くして自作した。

 蕎麦粉がやっと出来上がり、ぼちぼちと増えてきたバンコクの日本食店に打診をしてみた。すると、「これだけの品質の蕎麦がタイで手に入るのか」と驚かれ、確かな手応えを得た。口コミで評判が広がり、今では引く手あまただ。

 検疫の関係で日本から玄蕎麦での輸入はできない。蕎麦粉の状態で輸入を試みたところで1年前には許可を申請しなければならず、需要が読めない。一番の問題は、いったん粉にひいてしまえばすぐに風味の落ちる蕎麦の特性にあった。バンコクの日本食店経営者にとって、井上さんたちが栽培した蕎麦は待ちに待った食材だ。

 戦後、北海道から体一つで上京し、船員学校見習いから水商売、金融業と渡り歩いたという井上さん。縁あって40歳を過ぎてからタイに渡り、妻と知り合った。それだけに、「タイに恩返しがしたい。貧しい村人の生活を少しでも向上させたい」との思いが強い。年内に6回目の年男を迎える井上さんは今、心身ともに充実している。(在バンコクジャーナリスト・小堀晋一)

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