【高論卓説】歪められた上海ユダヤ難民記念館

2017.9.14 05:00

 ■偏見展示で消えた「命のビザ」の功績

 2014年2月に中国政府は9月3日を抗日戦争勝利記念日、12月13日を南京大虐殺犠牲者国家追悼日と制定した。15年9月3日には「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」の記念式典が開催され、大規模な軍事パレードが開催されたのは記憶に新しい。ただ、70周年の記念行事に比べると、昨年そして今月3日の行事はあまりに印象が薄かった。この種の「記念行事」が盛大に行われないのは日中関係にとっては望ましいことでもある。

 しかし、抗日戦争勝利70周年の記念行事に合わせて改装された上海ユダヤ難民記念館は、その「改定」された展示内容にちょっと首をかしげざるを得ない部分がある。北京駐在時代の13年にも訪れたことがあるが、今夏改装後の記念館を再訪して展示内容が大幅に変わっていて驚いた。

 記念館は07年に開設され、70周年行事に間に合わせるべく15年に改装された。この展示内容が意図的に変更されたことに関しては、産経新聞(15年8月9日付)などごく一部のメディアが報じただけで、日本ではほとんど報じられていない。

 1943年に設置された上海ユダヤ人居住区は複雑な経緯で誕生している。所在地は中華民国の上海市楊樹浦地区(現在の中華人民共和国上海市虹口区)で、当時この場所を支配していたのは日本であり、そこに住んでいたのはユダヤ難民である。そして関連する資料を集めて展示してあるのがこの記念館である。

 30年代ナチス・ドイツによる反ユダヤ主義が激化すると、上海は当時世界で唯一残っていた無査証都市であったことから、行き場を失った多くのユダヤ難民が流入し、ピーク時には2万人以上いたといわれる。リトアニア領事の杉原千畝氏が日本通過のビザ(いわゆる命のビザ)を発給し日本経由で上海に逃れてきた難民も数多くいる。

 またウィーンの国民党政府時代の領事であった何鳳山氏も数千人のユダヤ人に査証を発行し、同様にヨーロッパから上海に逃れてきている。さらにソ連からシベリア経由で満州国に入国を求めてきたユダヤ難民に対して、樋口季一郎陸軍中将も入国を認めている。

 このように幾つかのルートが存在したにもかかわらず、中国人の何鳳山氏のみにスポットライトを当て、日本に関してもユダヤ難民に対し、苦痛を与えたという負の面のみが強調された展示に変わってしまっている。以前は何鳳山氏の写真と並んで展示されていた杉原千畝氏の写真がなくなる一方で、何鳳山氏の銅像が展示館の入り口に新設されているという具合である。

 日本は確かに43年にユダヤ人を指定地域に移動・隔離政策を取ったが、それは一般外国人同様に居留区を制限したものであり、ナチス・ドイツのような人種隔離政策とは異なるものである。

 記念館は外国人旅行客の観光ルートにもなっている。筆者が訪れたときには、中国の小学生が課外授業のような形で大勢訪れていた。このような偏った展示は時間経過とともに既成事実化する懸念がある。日本政府は国際社会全体への正確な情報発信を行いながら、中国に対して修正を粘り強く働きかけていくべきだ。

 今月29日は日中国交正常化45周年にあたるが、10月18日に第19回中国共産党大会を控えており、こちらの行事も盛大に行われることはなさそうである。

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【プロフィル】森山博之

 もりやま・ひろゆき 早大卒。旭化成広報室、同社北京事務所長(2007年7月~13年3月)などを経て、14年から遼寧中旭智業、旭リサーチセンター主幹研究員。59歳。大阪府出身。

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