最も人命を奪うのは「間違った政策」 経済危機で不健康になる国

2020.5.19 17:30

 不況は人々の命と健康に害をもたらすと言われてきた。だが詳細に調べると、一部の国ではむしろ人々は健康になっている。公衆衛生学者のデヴィッド・スタックラーらは「その違いは経済政策だ。不況下に緊縮政策をとる国では多くの命が失われる。株価は元に戻るかもしれないが、失われた命は二度と戻らない」という。(※本稿は、デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)の一部を抜粋・再編集したものです)

 リーマン・ショック後の不況で心と体に傷を負った少女

 オリヴィアは黒煙に包まれた恐怖をいまだに忘れられない。

 8歳のときのことだった。両親がいつものように口論を始め、台所で皿が割れる音がしたので怖くなって二階に上がった。そして枕の下に顔を突っ込み、泣きながら耳をふさいで騒ぎが収まるのを待っていたら、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。

 どれくらい眠っただろうか。ふいに右の頬に裂けるような痛みを感じて目を覚ました。すると部屋に黒い煙が充満し、シーツから炎が上がっていた。オリヴィアは悲鳴を上げ、部屋から飛び出した。そこへちょうど消防士が駆け上がってきて、オリヴィアを抱きとめ、毛布を巻きつけてくれた。

 その火事は父親の放火によるものだった。酒をあおった挙句に腹を立て、家に火をつけたのだ。アメリカが大不況〔いわゆるリーマン・ショック後の不況のこと。以下同様〕のただなかにあった2009年春のことで、建設作業員だった父親はその少し前に失業していた。当時アメリカには失業者が何百万人もいて、薬物に手を出したり、酒に溺れたりする例が少なくなかった。

 結局オリヴィアの父親は刑務所に入れられた。オリヴィアは重度のやけどを負い、体にも心にも傷を負った。炎と煙に包まれたあの恐怖を乗り越えるために、それから何年もセラピーを受けなければならなかった。それでも生き延びただけましだったと思うべきかもしれない。もっと運の悪い人も大勢いたのだから。

 「政府に殺される」と叫んで死んだ

 その3年後の2012年4月4日、アメリカから遠く離れたギリシャで77歳のディミトリス・クリストウラスが自殺した。ディミトリスにはほかに道がなかった。1994年に薬剤師を引退してから年金暮らしで、それなりに幸せにやってきたが、新政府に年金を奪われ、もはや薬代も払えないほど困窮していた。

 その日の朝、ディミトリスはアテネ中心部のシンタグマ広場に行き、国会議事堂の正面階段を上った。そして銃を頭に突きつけ、「自殺じゃない。政府に殺されるんだ」と叫んで引き金を引いた。

 後日、ディミトリスのかばんに入っていた遺書が公開された。そのなかでディミトリスは、新政府を第二次世界大戦中にナチスに協力したゲオルギウス・ツォラコグロウ政権になぞらえていた。

 今の政府はツォラコグロウ政権と同じだ。わたしは三五年間年金を払いつづけたし、今まで政府の厄介になったこともない。ところが政府は、当然受け取れるはずの年金をわたしから奪い、生きる術を奪った。もっと思い切った行動をとりたいところだが、この歳ではそれもできない(とはいえ誰かがカラシニコフ銃を手にするなら、わたしもすぐあとに続きたいところだ)。もう自分で命を絶つ以外に方法がない。そうすれば、ゴミ箱をあさるような惨めな思いをせずにすむ。この国の未来のない若者たちは、いつの日か武器を手にとり、裏切り者たちをシンタグマ広場に吊すだろう。一九四五年にイタリア人がムッソリーニを吊したように。

 ディミトリスの自殺については、後日「これは自殺ではなく殺人だ」という声も上がった。ディミトリスが死んだ場所の近くの木には、こんな抗議文が打ちつけられた。「もうたくさん。次は誰の番?」

 不況と健康の関係性はどの程度深いか?

 アメリカとギリシャは8000キロ以上離れている。しかしオリヴィアとディミトリスの運命は、どちらも世界大恐慌以来最悪といわれる金融・経済危機によって捻じ曲げられた。

 わたしたち二人は公衆衛生学者として(サンジェイはカリフォルニアのスタンフォード大学、デヴィッドはイギリスのオックスフォード大学で研究をしている)、今回の大不況〔同上。リーマン・ショック後の不況を指す〕が多くの人々の命と健康に害をもたらしつつあるのではないかと心配になった。実際、患者や友人、隣人の話を聞いてみると、失業で健康保険を失い、治療や投薬を受けられないという人が少なくなかった。

 しかも医療にとどまらず、生活全体に被害が及んでいた。きちんとした食事がとれない、強いストレスにさらされている、家を失って路頭に迷っているといった人が増えていたのである。こうした状況は心臓疾患やうつ病、自殺、さらには感染症の広がりにも影響を与えずにはおかない。その影響はどの程度のものだろうか?

 わたしたちはその答えを求め、今回および過去の大不況に関するデータを世界中から集めた。そして丹念に調べていくと、いささか矛盾する結果が出ていることがわかった。

 経済危機で健康になる国と不健康になる国

 まず、経済危機が人々の健康にダメージを与える可能性があることが確認できた。これは予想どおりの結果である。不況で仕事を失い、あるいは家を失い、借金に追われるといった状況になれば、酒や薬物に溺れることもあるだろうし、場合によっては自殺も考えるだろう。そこまでいかなくても、手軽で安上がりなジャンクフードばかりを食べ、食生活に問題が出ることもある。

 つまり、オリヴィアやディミトリスのケースは例外でも何でもない。たとえば、ギリシャは大不況以前にはヨーロッパで最も自殺率が低い国だったが、2007年以降そのギリシャで自殺が急増し、2012年までに自殺率が倍になった。ギリシャにかぎらず、他のEU諸国でも同じ傾向が見られ、大不況以前は自殺率が20年以上一貫して低下していたのに、大不況によって一気に上昇に転じた。

 その一方で、逆の現象も起きていた。経済危機によって健康が改善した地域や国があったのだ。たとえばアイスランドは史上最悪の金融危機に見舞われたが、国民の健康状態は実質上よくなっていた。スウェーデンとカナダも今回の大不況で国民の健康状態が改善したし、ノルウェー人の平均寿命は史上最長を記録した。北方の国ばかりではない。日本も同様で、「失われた10年」いや「20年」と言われるほど不況が長期化して苦しんでいるが、健康統計では世界トップクラスの結果を出している。

 こうした明るいデータを見て、安易に「不況は体にいい」という結論に飛びつくエコノミストもいる。彼らは不況で収入が減ると飲酒量や喫煙量が減るし、車に乗らずに歩くようになるなど、健康にいいことが増えるからだと説明する。そして多くの国や地域で不況と死亡率の低下に相関関係が見られると説く。なかにはまことしやかに、不況が終わったらアメリカでは6万人が死ぬことになると予言する人までいる。

 不況そのものではなく「政策」で国民の健康が変わる

 だが、彼らはその逆を示す世界各国のデータを無視している。今回の大不況の間に、アメリカのいくつかの郡では40年ぶりに平均寿命が短くなった。ロンドンでは心臓麻痺が2000件増えた。自殺も増えつづけているし、アルコール関連の死因による死亡例も増加している。

 つまり世界中のデータをきちんと見れば、不況でオリヴィアやディミトリスのような目にあう人々が大勢いることは否定のしようがない。だがその一方で、健康になる人々がいるのもこれまた確かである。これはどういうことなのだろうか?

 その答えは、不況そのものではなく、不況に際して政府がとる政策にあるのではないかとわたしたちは考えた。

 奇しくも2012年のアメリカ大統領選挙は、刺激策か緊縮策か、公共サービスか個人の収入かといった普遍的な問いを投げかけるものとなった。そして富裕層への増税と社会福祉への投資を訴えたバラク・オバマ大統領が再選され、緊縮策は退けられ、そこからアメリカはゆっくりと不況を脱した。一方イギリスでは2010年以来緊縮政策がとられているが、その結果、2013年1月現在、不況に逆戻りしそうになっている。

 不況による惨事は政治的選択によって引き起こされる

 この10年間、わたしたちは大量のデータや報告書と格闘しながら問いつづけてきた。緊縮策か刺激策か? 富裕層への減税か増税か? 貧困層への公共サービスを切るべきか拡充するべきか? その答えを求めて極寒のシベリアの廃墟と化した町へ、あるいはバンコクの赤線地帯へと世界中を飛び回った。

 その結果、はっきりわかったことがある。経済危機で感染症が発生・拡大した地域が少なくないなか、それを未然に防ぐことができた地域もあるのだが、後者にほぼ共通して見られるのは、その社会に強いセーフティネット、強い社会保護制度があるということだった。

 オリヴィアやディミトリスのような惨事は不況が必然的に引き起こすものではない。それはむしろ、銀行を救済して国民のセーフティネットを削るといった政治的選択によって引き起こされる。逆に言えば、政府の、あるいは国民の選択次第で、経済危機による疾病の蔓延を食い止めることもできる。

 ある種の緊縮政策は確実に人の命を奪う

 また、今回の研究でもう一つ明らかになったのは、ある種の緊縮政策が文字どおり致命的な結果を招くということである。確かに不況は難しい状況を作り出すので、そこで人が健康を損なうこともある。だがもっと恐ろしいのは政策で、ある種の緊縮政策は確実に人の命を奪う。

 経済に関する世界最強のアドバイザーであるIMFは、これまで財政難に陥った国々に対してセーフティネットまで削るような緊縮政策を強いてきた。だがそのIMFも、最近の報告書でこの方針を変える姿勢を示している。緊縮政策は健康被害を生むばかりか、かえって経済を減速させ、失業率を上げ、投資家の信頼を下げるものだとようやく気づいたようだ。

 ヨーロッパでは、緊縮政策によって需要が枯渇するのを目の当たりにしたことから、民間企業の側からも緊縮策反対を叫ぶ声が上がるようになってきた。わたしたち二人は公衆衛生学の見地からセーフティネットの重要性を訴えているが、それもまた単に健康増進のためではない。今回の研究で、不況時においてもセーフティネットをしっかり維持することが、健康維持のみならず、人々の職場への復帰を助け、苦しいなかでも収入を維持する下支えとなり、ひいては経済を押し上げる力になるとわかったからである。

 配慮の足りない緊縮政策は死者を増やすだけ

 わたしたち現代人はいつの間にか大事なことを忘れてしまっていないだろうか? 負債も財源も経済成長も重要である。だが「あなたにとって最も大切なものは?」と訊かれて、ポケットから財布を取り出す人はいないし、自宅の増築だの高級車だのアップルの最新機器だのの話をする人もいないだろう。この問いのような調査は繰り返し行われているが、いつも結果は同じである。誰もが最も大切に思っているのは自分や家族の健康だ。

 だとすれば、わたしたちの論点を「ボディ・エコノミック」という言葉でくくってもいいかもしれない。これはわたしたちの造語だが、要するに国の経済を体に見立てて、その健康を管理するという考え方である(もちろん国民一人一人の健康も含めて)。なにしろ経済政策の選択はわたしたちの健康に、ひいては命に、甚大な影響を与えるのだから。

 医薬品の審査はあれだけ厳しいのに、なぜ経済政策の人体への影響は審査しないのだろうか。同等の厳しい審査があってしかるべきではないだろうか。ある経済政策が人体にとって安全で効果的だとわかれば、それはすなわち、より安全で健康的な社会を作れるということである。

 だが現状ではそうした審査が行われていないため、安全な経済政策ではなく危険な経済政策が横行している。配慮の足りない緊縮政策を断行することは、危険な薬の臨床試験を堂々と行うようなものであり、そんなことを続ければただ意味もなく死者が増えるばかりである。

 緊縮政策の代価は人命である。そのあとでめでたく株価が元に戻ろうとも、失われた命は二度と戻らない。(オックスフォード大学 教授 デヴィッド・スタックラー、医学博士 サンジェイ・バス)

 デヴィッド・スタックラー

 オックスフォード大学 教授

 公衆衛生学修士、政治社会学博士。王立職業技能検定協会特別会員。イェール大学、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学などで研究を重ね、現在、オックスフォード大学教授、ロンドン大学衛生学熱帯医学大学院(LSHTM)名誉特別研究員。著書にSick Societies: Responding to the Global Challenge of Chronic Diseaseがある。オックスフォード在住。

 サンジェイ・バス

 医学博士

 オックスフォード大学大学院にローズ奨学生として学ぶ。現在、スタンフォード大学予防医学研究所助教、また同大学にて疫学者として従事。サンフランシスコ在住。

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