【専欄】米中和解時の通訳者の死 今の悪化した関係は、目にしたくない現実だろう

2020.5.19 05:00

 元滋賀県立大学教授・荒井利明

 1971年のキッシンジャーの秘密訪中、翌72年のニクソン訪中などで通訳を務めた冀朝鋳(きちょうちゅう)が先月末、90歳で亡くなった。毛沢東、周恩来、トウ小平らの通訳として、対立から和解、そして正常化へと動いた米中関係を目撃した人だった。

 29年に山西省に生まれた冀朝鋳は9歳の時、父母とともにニューヨークに渡り、大学まで米国で学んだ。50年の朝鮮戦争の勃発後、帰国し、休戦協議で通訳を務めた。それが長い通訳人生の最初の一歩だった。

 冀朝鋳は通訳として何度も歴史的な場面に立ち会っているが、ニクソンの「世界を変えた」訪中は間違いなくその一つだろう。ニクソンが米国の大統領として初めて北京空港に降り立ったとき、タラップ下で待ち構える周恩来の右後ろにいたのが冀朝鋳だった。

 毛沢東は76年5月、北京の中南海でパキスタンの首相と会った。毛沢東にとってそれが外国要人との最後の会談となったが、この10分間の会談で通訳を務めたのも冀朝鋳だった。

 晩年の毛沢東は頭脳は明晰(めいせき)だったが、言語は不明瞭でなかなか聞き取れず、常に付き添っていた女性が毛沢東に発言を確認したあと、ようやく通訳することができたという。

 79年1月、米中の関係正常化が実現した。トウ小平はこれを受けて1月下旬から2月上旬にかけて訪米した。冀朝鋳はこのとき49歳で、既に通訳業務から離れ、外務省の副局長となっていたが、トウ小平の強い求めで同行し、通訳を務めた。

 駐米公使参事官、駐英大使などを経て96年に退職した冀朝鋳にとって、出処進退の難しかったのは文化大革命時だった。文革末期、当時の外相、喬冠華(きょうかんか)は江青(毛沢東の妻)と良好な関係を結んで権力闘争を生き抜こうと図り、冀朝鋳にも働きかけた。だが、同調を拒んだという。毛沢東の死後、江青は拘束され、喬冠華は失脚した。

 冀朝鋳はかつて、「舞台の上に立つのは1分だが、舞台の下での努力は10年」と語ったという。通訳としての役割を十分にこなすには語学だけでなく、知識や教養を身に付けねばならないということだろう。そうでなければ、指導者が古典を引用したときなど、瞬時に反応できないだろう。

 トランプ政権下で悪化した米中関係は、米中の和解から関係正常化を最高指導者のすぐそばで見てきた者にとって、目にしたくない現実だろう。(敬称略)

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