ラーメンとニッポン経済

1958-東京タワーとダイエー、そしてチキンラーメン 戦後の「消費者」を創った58年組

佐々木正孝
佐々木正孝

 あの頃、日本中がガチャの大確変に湧いていた。1955年から1973年まで、年平均10%以上の成長が18年も続いた高度経済成長期-消費者が熱狂的に支持したのがインスタントラーメンである。その時代に出現したラーメンに焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく本連載。第3回は1958年に誕生した「チキンラーメン」にスポットライトを当てる。店舗や屋台で啜るものだったラーメンは、この頃からテレビを前にしたダイニングテーブルで食されるようにもなっていった。チキンラーメンのブレイクスルーは高度経済成長の縮図だ。坂の上の雲ならぬ、丼の上の湯気を追っていこう。

■イノベーターか、アントレプレナーか。安藤百福という男

 1958年(昭和33年)3月5日、冷え込みの厳しい午前5時。大阪府池田市呉服町の一角、ある家の庭に立つ、粗末な小屋。

 そこは、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が誕生せんとする瞬間を切り取ったスペース。大阪、横浜カップヌードルミュージアムで再現展示されている「百福の研究小屋」だ。当時の天候から付近の植生、水道栓やガス管、小麦粉の袋の縫製からマッチ、自転車に至るまで綿密な時代考証・再現を徹底した空間からは、ある男の情念が漂ってくる。そう、チキンラーメンを開発し、日清食品を創業した安藤百福である。

 安藤百福。1910年、台湾で生を受け、22歳にして日本内地から繊維を仕入れ、台湾で販売する「東洋莫大小」を起業。以来、戦前から戦後まで10以上の事業を起こしていく。今で言う連続起業家、プロ起業家だ。

 安藤は世界初のインスタントラーメンを発明。新産業を創出したイノベーターとして評される傑物だ。研究小屋で試行錯誤した結果、妻の仁子が天ぷらを揚げる光景を見て「瞬間油熱乾燥法」を思いついたというエピソードが知られ、2019年のNHK朝ドラ『まんぷく』でドラマチックに活写されたことも記憶に新しい。

 ただ、文献を渉猟すると1955年には既に松田産業(現おやつカンパニー)が「味付中華麺」を発売(売上不振で撤退し、同社はそのリソースからベビースターラーメンを開発)。また、チキンラーメンとほぼ同時期に「長寿麺」「鶏糸麺」という類似商品も開発されている。油で麺を揚げるという技法について、台湾で普及していた油揚げ乾燥麺からインスパイアされたのでは、という指摘もある。

 チキンラーメン開発をまっさらなイノベーションと断言はできないのかもしれない。しかし、彼がたどり着いたブルーオーシャンが色を失うことはない。明星食品社史『めんづくり味づくり 明星食品30年の歩み』は「チキンラーメンがインスタントラーメンの嚆矢とされる理由」として、以下の3ポイントを挙げる。

(1)α化されためんに味つけをしたあと油揚げをするという手法を、工業的に確立し量産を可能にしたこと

(2)商品の完成度が段違いであったこと

(3)熱湯を注いだだけで食べられるという特製を、テレビ、ラジオなどの新しい、強いマスメディアに乗せてアピールし、それまで徐々に醸成されつつあった消費者のインスタント食品に対する受容性を、一気に発酵させたこと

 彼が為したのはチキンラーメンの開発だけではなかったのか? 本記事は、安藤の事績をつまびらかにし、「昭和ビジネスのCxO」としての足跡を追う。

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