日本で講演を行い、そのなかで「審美性と意味は密接な関係にあります」と説明する。そうすると、聴衆の一定数、「それ、どういう関係があるのですか?」と不可解そうな表情をする人がいる。
審美性と意味の関係について、ぼくは講演のなかでいくつかの事例を紹介する。例えば、1つの例が以下だ。
バルト三国の1つリトアニアは1990年、45年間にわたって支配されていた旧ソ連から独立した。しかしながら、それから30年近い年を経た現在も、新しい国・社会のアイデンティティーをなかなか持てないでいる。
同国文化省デザインボードメンバーであり、カウナス工科大学のデザインセンター長のルータは、この状況について次のように語る。
「旧ソ連時代、人々はあらゆることに美しいか美しくないかとの判断をする習慣をなくしてしまいました。審美性の判断は行政の手に委ねられたのです。しかし、国家が独立をはたし、一人一人が考えて新しい社会文化をつくることになりました。その時、審美性への関心の欠如が障害になっています。審美性が低下した状態では、新しい意味を考えていくことが難しいわけです」
カウナス工科大学の学生はすべてエンジニアリング専攻であるが、産業振興と社会づくりの両方を目的に、新入生は全員、デザインを必須科目として履修しないといけない。
「こだわり」(=審美眼)があるからこそ、意味は方向性を伴うことができる。逆にいえば、国が全てを統制する社会では、1人1人がこだわりをもたないような政策が実施されたわけである。