これがパーソナライゼーションの手本であり、ラグジュアリーの極みなのだと気づいた。
パーソナライゼーションの動向はそこかしこで聞く。殊にデジタルデータの蓄積から広がるパーソナライゼーションの可能性が頻繁に語られる。そしてネットでの「あなたへのお勧め」との中途半端なパーソナライゼーションに何度ガッカリさせられてきたことか。だからパーソナライゼーションの根源にあるものをそう本気で考えることもなかった。
しかしながら、胸が幸福感でふと一杯になる瞬間は、他人に名前を呼ばれた時だとの極めてシンプルなことで目が覚めた。
毎朝、小学校で授業がはじまる前に先生が生徒の出席を確認するために名前を呼んでくれた。それで喜ぶことはなかった。だが、風邪で数日休んだ後に登校したとき、先生に廊下で呼び止められ体調を聞かれるのは嬉しかった。
大学を卒業して10数年を経た頃、ローマで開催されたあるパーティに出席した時、元学長から「君はどうしてここにいるのですか?! 君は私の大学の学生でしたよね?」と先方から声をかけられた。学生時代、学長と接する機会など殆どなかったが、キャンパスで交差して記憶にあったのだろう。名前は知らずとも、ぼくという存在を覚えていてくれたのには心底驚いた。
自分がここに生きていることを他人が記憶にとどめておいてくれる。その象徴的な表現が名前の呼び方なのだ。