ビジョン流行りだ。ビジョンなきところに前進はない。そう熱く語られる。ビジョンをどうもてば良いかとの書籍も多い。
ぼく自身も講演などでビジョンの大切さを語ることが多々ある。だからビジョンの重要さを推進する側にいる人間である。
ただ、一方でもう1人の自分がいる。ビジョンはコロコロ変わるものだ、と見切っている。状況とその時の気持ちでビジョンは変わっていく。それを朝令暮改だと批判するわけではない。逆だ。その変貌をそのまま受け入れる派だ。
こう考える2つの個人的経験がある。
1つは極めて私的な話で恐縮だが、ぼくが結婚を決めたとき、当時のボスに言われたことだ。
出逢いから結婚の決意までの時間が相当に短かったのだが(僅か1週間だ)、そのことをボスに報告した際、「どうして結婚を決めたのだ?」と聞かれた。
咄嗟にぼくの口から出た言葉は「彼女とビジョンを共有できると思ったからです」。即座にボスに突っ込まれた。「そんな理由で結婚を決めるものじゃない!」と。
ビジョンの共有を「そんな理由」と表現されたのである。
「俺の知りたいのは、君が彼女と動物的な感覚で一緒にずっといたいかどうかなんだ。ビジョンなんて、これからどんどん変わっていくものだから、そんなことで結婚をするものじゃない」
もちろん、ぼくは即、動物的感覚で惹かれたのが前提であると言葉を付け加えた。だが、ぼくは自分が小賢しい理由を出した気になり、「ちっとも分かっていなかったなあ」と反省した。