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「知の巨人」の多用に違和感 権威主義の新しい皮が必要とされている結果か (1/3ページ)

安西洋之
安西洋之

 ある言葉や表現が時代によって使われ方が変化することに文句を言っても仕方がない。そう使いたい人が多くなってきた何らかの背景があるはずだ。そんなことを、「知の巨人」という形容を多く眺め、考えている。

 いつ頃から増えてきたのかと思い、グーグルトレンドでこの15年間の動向を調べた。するとこの10年間よりも2005年から2010年の5年間の方が多いくらいだ。

 比較対象として「知識人」を入れると、「知の巨人」よりは多く使われているが、特に近年、際立った変化があったとは言えそうにない。知の世界が急に見直されているわけでもないのだ。その証拠に「教養」をみてもかなり安定している。

 つまりネットという大げさな表現が使われやすいメディアで、「知の巨人」という表現が多用されているとの印象をぼくがもったのは、ぼく自身の勘違いか、この表現に違和感をもち記憶に残ったケースが多いことが要因になる。

 この数カ月、パンデミックで世界が混乱に満ちているなかで、知の救いを求めるがごとく、例えば「欧州の知の巨人に聞いた!」みたいなインタビュー記事が目についたのが、筆頭例にあがるだろう。そしてソーシャルメディアで「知の巨人の○○が話しているよ!」と興奮気味にシェアされる。

 ぼくは「へえ、この人が知の巨人なのか」とどうしても思ってしまうのだ。ぼくがイメージする知の巨人は、既に亡くなった方か、こういう表現は微妙だが、いわば晩年を過ごされている方で、もう滅多に社会に向けて発言されない方だ。

 とっくの昔に「全著作集」が出され、巨人と言われるのであれば、その方の業績のおかげで、その分野で以前活動されていた方たちの成果が霞んでみえてしまう。そういう存在を自ずと期待するのだが…。 

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