キネマのふるさと

(1)松竹キネマ蒲田撮影所100年 映画黎明期支えた情熱と志

 ♪虹の都、光の港、キネマの天地-。「蒲田行進曲」の発車メロディーが鳴るJR蒲田駅。今から100年前の大正9年、東京都大田区蒲田に「松竹キネマ蒲田撮影所」が開所し、大船撮影所に移転するまでの16年の間に約1200本もの映画が製作された。日本初の本格トーキー映画などさまざまな革新を起こし、小津安二郎ら名監督を生んだのもこの地だ。蒲田行進曲は、撮影所の所歌でもあった。

 「蒲田は日本の映画のふるさとです」。今年4月に亡くなった監督の大林宣彦さんは、平成30年に開かれた蒲田映画祭のトークショーで、そう語った。ただ、現在の「ふるさと」は昔の面影を失っている。

 撮影所があったのは駅から徒歩3分ほどの場所。現在は区民ホール「アプリコ」などが建ち、施設内には、撮影所の前の逆川に架かっていたといわれる松竹橋の親柱がひっそりと展示されている。昨年には商店街にあった2つの映画館が閉館し、映画の街としての存在感も薄れつつある。

 「16年という短い期間ながら、日本映画の発展に貢献し、蒲田が栄えるきっかけにもなった蒲田撮影所のことをもっと多くの人に知ってほしい」

 そう語るのは、大田区観光協会の岡茂光さん(76)だ。岡さんらは平成25年に蒲田映画祭をスタートさせ、8回目となる今年は女優、有馬稲子さんらを招いたトークショーや、上映会が行われた。

 大林監督は先のトークショーでこうも語った。「戦争をしてしまった世代なので反戦と言えない。でも、映画は、人々の心を温かくし、平和にさせる魔法の力があると信じている」

 岡さんは「大林さんの考えは、蒲田撮影所の所長、城戸四郎さんが掲げた『蒲田調』と呼ばれるテーマにつながると思う」と話す。

 大正13年に所長に就任した城戸は、スター第一主義から監督至上主義にかじを切り、昭和6年には日本初の本格的トーキー映画「マダムと女房」(五所平之助監督)を成功させた。

 城戸は自らが掲げた蒲田調について「人間社会に起る身近な出来事を通して、その中に人間の真実というものを直視することである」と説き、「映画の基本は救いでなければならない」と喝破した(「日本映画伝-映画製作者の記録」文芸春秋新社)。また、当時の撮影所を「俳優、演出家、カメラマンを問わず、いずれも自分の特徴を発揮し、あるいは特技の優秀さを獲得せんと血みどろの努力がはらわれている」(「映画への道」松竹出版部)と記した。

 試行錯誤もあった。同時録音された「マダムと女房」の撮影では、笛を吹く豆腐屋を遠ざけるため、スタッフが豆腐を買いに行かされた逸話も残っている。

 「日本映画の最初の黎明(れいめい)を作ったものは蒲田であり、この点で、皆が蒲田に感謝しなければならない」(詩人・萩原朔太郎、雑誌「蒲田」)。情熱と志にあふれていた松竹キネマ蒲田撮影所。100年を機に、当時を振り返る。(本江希望)

【次回(2)は明日12月29日に掲載します】

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