キネマのふるさと

(2)切磋琢磨 巨匠、小津安二郎の青春時代

 世界中にファンを持つ日本映画の巨匠、小津安二郎(明治36~昭和38年)。監督した54作品のうち、デビュー作「懺悔(ざんげ)の刃(やいば)」から、自身初の音声付きのトーキー映画「一人息子」まで、36作品が松竹キネマ蒲田撮影所で撮影された。日本映画の黎明期に蒲田で映画作りを学んだ小津は、撮影所の大船移転、戦争体験などを経て、「小津調」とも呼ばれる独自の映画スタイルを築き上げていった。

 「小津にとって蒲田時代は、映画作りの青春だったといえます。ハリウッド作品にも学びつつ、自分の映画の文体を模索していた。若い仲間たちとともに映画づくりの面白さ、難しさを謳歌(おうか)した時代でした」

 そう語るのは、国立映画アーカイブ主任研究員の岡田秀則さん(52)。大正12年、撮影部の助手として蒲田撮影所に入所した小津は、その3年後に大久保忠素(ただもと)監督の助監督となる。

 小津が清水宏や斎藤寅次郎ら同世代の映画人と議論を交わし、切磋琢磨(せっさたくま)した当時の様子を、牛原虚彦(きよひこ)監督の回想が伝えている。

 「泊まりこみ編集のときこそが、みんなが徹底的に映画の議論をするチャンスでした。仕事をそっちのけにして、宿泊用の布団の上に車座になって映画を論じたのです。小津ちゃん(オッチャン)は皮肉な人ですから、よく先回りした質問をして僕をやりこめました」(佐藤忠男「小津安二郎の芸術 上」朝日新聞社)

 昭和2年に時代劇「懺悔の刃」で監督デビューを果たし、7年にはキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた「大人の見る繪本(えほん) 生れてはみたけれど」など、意欲的に作品を発表。日本初の本格的なトーキー映画「マダムと女房」(五所平之助監督)が公開された5年後の11年、小津はトーキー作品を発表した。

 裸電球の映像にカチカチと刻む時計の針と、ボーンと鳴る鐘の音-。小津が監督した記念すべき初のトーキー映画「一人息子」のオープニングは静かに幕を開ける。小津は「マダムと女房」で使われたトーキーの方式ではなく、コンビを組んでいたカメラマン、茂原英雄が開発を進める「茂原式トーキー」にこだわり、11年に蒲田から大船に撮影所が移転した後も蒲田に残って「一人息子」の撮影を続けていた。

 「誰もいなくなった蒲田の空スタジオを使ってやった。電車の音がうるさくてね、昼間は撮れない。夜中の12時から明け方の5時まで、毎晩5カット位ずつ撮っていった。楽しい撮影でしたよ」(日本図書センター「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」)

 小津はその後、代表作「東京物語」など、大船撮影所で数々の名作を生み出す。しかし、映画演劇史料収集家の松田集(つどい)さん(70)は「蒲田時代は小津の原点」と言い切る。「モダンなところ、クスっと笑ってしまうユーモア、ペーソス(悲哀)、すべて蒲田で学んだものだと思う」

 小津自身は、25年発行の「高田保対談集 二つの椅子」(朝日新聞社)で「蒲田時代のほうが滅茶だった。あの頃は傍若無人だったから」と懐かしむとともに、「蒲田のあそこへ『松竹映画発祥の地』という記念碑を建てようじゃないかという話がよく出るんですがね」と語り、蒲田撮影所が忘れ去られようとしていることを嘆いていた。(本江希望)(次回(3)は明日12月30日に掲載します)

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