キネマのふるさと

(4)構想変化 蒲田なき「行進曲」

 「今の飲み屋街のある蒲田に昔、撮影所があったことはなかなか分かんないでしょう。それを書きたかったというのがありましたね」

 昭和57年に公開され、日本アカデミー賞最優秀作品賞など賞を総なめにした映画「蒲田行進曲」(深作欣二監督)。原作者で劇作家、つかこうへいさん(1948~2010年)は、当初の構想をこう語っていた(「キネマ旬報」昭和57年10月下旬号)。

 「ヤス、上がってこい!」。クライマックスで39段の階段から転げ落ちる「階段落ち」が有名な本作は、花形スターの銀四郎(風間杜夫さん)と大部屋俳優のヤス(平田満さん)、銀四郎の子を身籠りながらヤスと結婚する落ち目の女優、小夏(松坂慶子さん)の奇妙な三角関係が描かれる。

 ただ、松竹キネマ蒲田撮影所の話はどこにも出てこず、映画の舞台は東映京都撮影所。初期の構想から大きく変わった作品となった。

 つかさんは著書などで、当初は蒲田撮影所を舞台に、サイレント映画時代の栄光を忘れられない往年の大女優を描いた米映画「サンセット大通り」(1950年)のような作品や、悲劇の最期を遂げた女優、ビビアン・リーの生涯のような作品を書くつもりだったことを明かしている。

 映画に先立つ昭和55年には、劇団「つかこうへい事務所」が初演し、翌年につかさんが小説化した。同劇団に所属した劇作家の長谷川康夫さん(67)は「つかさんが、(シンガーソングライターの)あがた森魚(もりお)さんの『蒲田行進曲’74』という曲のタイトルを気に入り、蒲田撮影所やビビアン・リー、自分にファンレターを書き続ける女優をモチーフに芝居を作り始めたんです」と明かす。

 しかし、テレビで見た東映の斬られ役、汐路(しおじ)章さんによる「階段落ち」の話に興味を持ったつかさんが、東映京都撮影所を訪ねてイメージを膨らませ、当初の構想と違う内容になっていったという。小説は直木賞を受賞し、映画は大ヒットしたが「つかさんはずっと『これは蒲田行進曲じゃないんだ』と言って気にしていました」と長谷川さん。

 これが4年後の「キネマの天地」(山田洋次監督)誕生につながることは、前回書いた通りだ。

 蒲田撮影所が大船に移転したのは昭和11年。周辺の工場の騒音で、トーキー(音声付き)映画の撮影に支障をきたすことなどが理由だった。

 20年の東京大空襲で蒲田は焼け野原になったが、30年代には蒲田駅周辺に20館以上の映画館が立ち並び、都内有数の映画の街となった。しかし、テレビの普及などで衰退し、昨年まで商店街に残っていた2つの映画館も閉館した。

 「蒲田から映画の灯を絶やさないために、ここに映画館もしくは映画を軸とした文化施設ができてほしい」。平成25年に始まった蒲田映画祭のプロデューサーで大田区観光協会の岡茂光さん(76)はそう語る。

 撮影所跡地に近い複合施設「アスレチッタ蒲田」には、撮影所長・城戸四郎さんの字による「蒲田松竹撮影所跡」の碑がひっそりとたたずみ、ここが「日本の映画のふるさと」(映画監督の大林宣彦さん)だったことを今に伝えている。(本江希望)=おわり

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