ホリエモンが東大卒を捨てた理由 堀江貴文はこう起業家人生をスタートした

2019.12.2 07:10

 本当にそれは必要ですか? 良くも悪くも、あなたの持ち物は重くなってはいないでしょうか。大切にしていた「はず」のモノで、逆に心が押しつぶされそうになってはいないか。だから、ビジネスも人生も「捨てる」ことからはじめよう。「これから」を、病まないで生きるために。

 僕は「時代の寵児」と呼ばれてから一転して逮捕・収監を経験しました。その後、令和元年、ついに日本初の民間ロケット打ち上げ実験を成功させることができました。その折々にあったのは「捨てること」「持たないこと」を徹底した思考法でした。

 もし、自分にある種の強さがあるとすれば、それは「捨てる」ことへの、ためらないのなさかもしれないと思っています。幼少期の原体験から東大、ライブドア時代と、久し振りに自身の半生をゼロから振り返った「原点」を新刊『捨て本』(徳間書店)に記しました。

 逆境にあっても未来を見据えながら、今を全身全霊で生きる。そのために、捨てるべきものは何か。持っていなければいけないものは何か。ライフハック、お金、仕事から人間関係まで、「所有」という概念が溶けたこの時代に最適化して、幸せに生き抜くためのメソッドをつづっています。今回はビジネスにまつわる「捨てる」ことの意義を、3回に分けて紹介していきます。

 競馬にハマった学生時代

 僕は生来のギャンブル好きだ。

 学生時代、アルバイト先の先輩に誘われたのをきっかけに、どっぷり新しいギャンブルにハマってしまった。競馬である。最初の競馬で、一点張りが当たり、2万円の馬券が12万円弱に化けた。

 「なんだ、これは!?」。バイトで稼ぐ1カ月分のお金を、一瞬で得られた。その快感にとりつかれた僕は、以降1年ほど、ほとんどの時間を競馬に費やした。ハマり癖が悪い方に出たというべきか……。最初に誘ってくれた先輩も引いてしまい、みるみる負けがこんで、極貧生活になってしまった。1500円の手持ち金で1カ月を過ごさねばならないときもあった。

 大学4年になると、割と本気で「馬券で食っていこう!」と考えていた。学業からは、とっくに離れてしまっていた。生活の中心は、もう完全に競馬。それほど馬券が当たったときの金額のリターンと、得られる快感が大きかったのだ。しかし、世の中とのつながりが競馬だけになってしまうのは、さすがにまずいと思った。気付いたら成人していた。否が応でも、何か仕事に就かなければいけない。

 水が低きに流れるように、自然に身を任せる

 そんななか、目に入ったのはPC関連の仕事だった。中学時代、プログラムが得意だったのを思い出した。最初に見つけた会社で仕事をしているうち、プログラムの技術を「再起動」させた。スキルが高まり、もっと高い報酬をくれる別の会社を探した。そして某ベンチャー企業の子会社に、データ入力業務で採用された。

 僕にはPower Macが与えられた。当時はとても高額で、貧乏学生にはありがたいツールだった。それ以降、現在まで僕はMacユーザーを通している。新しい会社では、すぐに通信のサポート業務など、他の仕事を任されるようになった。スキルはすぐに高まっていった。

 学生時代は、特にIT業界への道を目指していたわけではない。その場その場で選択を重ね、やがて何かに導かれるように、僕の行くべき道が開かれていったような感覚だ。僕には人生の指針などないのだけれど、大事にしている考え方は、いくつかある。ひとつは「水が低きに流れるように、自然に身を任せる」ことだ。

 水は、山から集まって、やがて川となって流れていく。ときには滝もあるし、穏やかに流れていくこともあるだろう。さらに小さな川は集まり、大河となって、ゆったりと広い海に流れこんでいく。何者にも、せき止められない。せき止めようとしても、流れはどこかで必ず生まれ、別の支流から川となる。

 例えば、水に飲まれ、滝から落ちそうになってしまったら。そうならないよう努力はすべきだけれど、滝が間近に迫ったときは、どうしようもないのだ。「落ちたくない!」などと考えて、もがいても仕方がないと、僕は思う。「滝から水は落ちるもの。抵抗しても意味はない」と受け入れ、流れに身を任せてしまうのが最良だ。滝に落ちても、必ず浮上するチャンスはある。滝の向こうに延びる、また別の大きな流れに飛びこめたと考えればいいのだ。

 ビジネス、遊び、お金、人間関係……全ては流れのなかで、できている

 世間の人たちから見れば、堀江貴文という人間は、流れに逆らって生きているように見えるかもしれない。しかし僕本人は、逆らっているつもりがないのだ。ほとんど流れに身を任せている自覚しかない。ビジネスや遊び、お金も人間関係も、全ては流れのなかで、できている。自分から「こうしたい!」と願いながら取り組んだものは、あまりないのだ。

 誤解されてはいけないが、周りに流されるということではない。意識しているのは、「自分のなかの流れ」であって、他の人の流れとは関係ないのだ。人は、みんなそれぞれ自分にとっての川を流れている。僕もまた、僕だけの川のうねりを、流れているのだ。周りに流されるのではなく、自分の川の流れに逆らわず、自分の運命に逆らわずにただゆっくりと流れていけば、必ず行くべき海へ出られる。僕の思考の底には、そんな確信がある。

 運命とは、宇宙の法則であって、不確定性原理である。未来は予測できないものの集合体で、できているのだ。だから、予測などできっこないし、未来予測なんてものは、捨てていい。というか、そんなもの最初から持っておく必要はないのだ。未来は、不確定性に満ちている。逆に言うと、まったく確実ではないから、未来は未来なのだと言える。予測しようと思っても、土台から無理なのだ。不幸が起こるかもしれないし、思いがけないラッキーもあるだろう。いちいち一喜一憂していても、仕方がない。

 不幸なトラブルも、ラッキーな成果も、ぜんぶ流れのなかのものとして、受け止めないといけない。人生において、ある程度の軌道修正はできるかもしれないけれど、最終的にたどり着く大きな海は、変わりがないと思う。起きることは全部が当たり前。行くところは僕たちの意図や願いでは、どうにもできない。それが、流れに身を任せるということなのだ。

 力を抜いて、流れに身を任せるだけでいい。そして目の前のことに、ただひたすらに熱中すること。すると、人はいつの間にか、自分に合った仕事、人間関係、自分が在るべき場所へと、たどり着けると思う。

 僕は20代はじめに起業した。以降、同じぐらいのスピードで急成長したベンチャー企業は、日本の近代経済史のなかでも珍しい方だと思う。自慢ではなく、客観的事実として述べている。もっともっと金持ちになろうと、前のめりに努力したわけではない。 

 繰り返すが、時代の流れや人との出会い、自分の感情にリアルタイムで素直に従った結果、そうなったに過ぎないのだ。 

 流れのなかで、僕が何か自分なりに意識していたとしたら、「執着」をしないことだ。得たモノを何のためらいもなく、捨てていった。だから順調に、転がり続けられたのだと思う。流れる水のなかを行くとき、持ち物が多かったら、途中で止まるか、ケガをしてしまうのだ。

 父に「卒業だけはしろ」と諭されるも東大を中退

 大学4年のときから、仕事としてITの世界に触れた。次第にインターネットに、夢中になっていった。朝から晩まで、時間があればずっとPCに向かっていた。

 Webの世界は、スマートだった。全世界の情報がひとつの画面に集まる。百科事典や新聞などとは桁が違う、知の集積にアクセスできるだけではない。コミュニケーション、ショッピング、金融などあらゆるシステムと深くつながり、リアルの社会の景色を変えていくのだと思った。

 インターネットでの仕事は、処理スピードが速く、ミスしたとしても修正がすぐできる。トライアンドエラーの回数をいくらでも増やせ、そのぶん成功確率を高めていくことができた。しかも少ない人手で仕事が回せる。インターネットで、理想の未来がやって来る。僕はそう確信するようになった。

 ほどなく、僕はインターネット事業の会社を興そうと決めた。起業家としての知識は「上場って何でしょうか?」というレベルだった。最初に会社をつくるときは、書店で『会社のつくり方』という本を一冊買ってきて、具体的な手続きを学んだ。まずハンコをつくって、登記とかいう作業が必要なのか……というような状態だった。

 見よう見まねで、ものすごく稚拙な事業計画書をつくった。稚拙だったけど、書いていく過程で、頭のなかで描いていたビジネスのぼんやりした全体像が、輪郭をもって具体的になっていくようだった。最初の事業計画書のプリントアウト版は、いまも残っている。

 「1996年3月30日 午前4時43分」

 記録した時間帯が早朝なのは、仕事で残務処理をしてから帰宅して、そのまま書き上げたのだろう。事業計画書に書いた社名は「リビング・オン・ザ・エッヂ」(崖っぷちに生きる)。後に有限会社オン・ザ・エッヂと社名をあらため、社長には僕が就いた。この会社で、起業家としての僕の人生がスタートした。

 会社を立ち上げた時期と前後して、僕は東京大学を中退した。正確には1997年の2月に、中退という記録になっている。行くのを完全にやめたら、自動的に「除籍」されたという具合だ。僕に除籍の通知があったのかどうかは、もう覚えていない。

 でも、八女市の実家に、教授から報告はあったようだ。その頃にはもう、僕は実家とは連絡を取り合っていなかった。でも除籍となって、さすがに驚いたのか、父親が電話をかけてきた。

 「中退はダメだ。絶対に卒業だけはしろ」というような話をされた。適当に聞き流し、全面的に無視だった。地元にいれば鉄拳制裁だったかもしれないけど、遠く離れて住んでいるので、父親の怒りは、まったく届かない。まあ、どんな正論を言われようと、僕の人生を生きるのは僕自身なのだ。僕が起業してビジネスを始めるのだと決めたら、もうその通りに突き進むのみ。決定事項なので、他人の意見になんか従うわけない。

 面白そうな流れに身を任せた

 東京大学卒業という肩書を捨てることに、ためらいはなかった。

 いろんなところで述べているのだが、日本社会において東大は卒業してもしなくても、特に差はない。東大に入ったことが、大きな信用とブランドになる。それを僕はもう獲得していた。

 東大生ブランドという、実利的に得るべきものは得た。大学生活で、他に得るべきものは、もうなかった。やっと見つけた、本気でワクワクできそうなITビジネスを、始めるだけだった。せっかく4年生まで通ってもったいない……卒業ぐらいしておけばいいのに、と言われる。その「もったいない」という感覚が、僕には全然、理解できない。

 面白そうなことを始められるチャンスを先送りにして、行きたくもない大学に通い、学びたくもない勉強を修めなくちゃいけない時間の方が、僕には何十倍も、もったいなく感じられる。それはおかしいのだろうか?

 大学卒業を大事にして、勉強に励んでいる人を否定するわけではない。僕自身も、「卒業しなくて良かった」と考えているわけではないのだ。もし起業という、卒業にかかる手間や時間を捨てるにふさわしい、楽しそうなことが見つかっていなければ、とりあえず卒業には努めていただろう。

 あのとき、僕にはやりたいことの「流れ」が、やってきた。だから別にやりたくもない大学生の暮らしから降りた。降りたというより、面白そうな流れに身を任せた、それだけのことだ。

 「卒業しておけばよかったと悔しくなるときがあるよ」と、知人に言われたこともある。アドバイスとしては受け止めるが、起業以降、一度たりとも後悔はなかった。

 中退したときは、むしろ、これで学生の身分じゃないから堂々と馬主申請ができる! と大喜びした。そして数年後の1999年には、馬主になる夢をかなえられた。人の意見など聞かないものだと、心から思った。(ITmedia)

堀江 貴文(ほりえ・たかふみ)

 1972年福岡県八女市生まれ。実業家。SNS media&consultingファウンダーおよびロケット開発事業を手掛けるインターステラテクノロジズのファウンダーも務める。元ライブドア代表取締役CEO。2006年証券取引法違反で東京地検特捜部に逮捕され、実刑判決を下され服役。13年釈放。現在は宇宙関連事業、作家活動のほか、人気アプリのプロデュースなどの活動を幅広く展開。19年5月4日にはインターステラテクノロジズ社のロケット「MOMO3号機」が民間では日本初となる宇宙空間到達に成功した。予防医療普及協会としても活動する。14年にはサロン「堀江貴文イノベーション大学校」をスタートした。本書『捨て本』(徳間書店)以外の著書に『健康の結論』(KADOKAWA)『ピロリ菌やばい』(ゴマブックス)など多数

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