世界では近年、同性愛や同性婚に賛成する人たちが「同性愛や同性婚を反対することは差別である」と主張し、欧米諸国では相次いで、同性愛者などのLGBT(性的少数者)に対する差別を禁止する法律が制定されている。日本でも現在、超党派でLGBT理解増進法案を国会提出する動きがある。まだ正式に提出された法案ではなく、内容は流動的のようだが、報道によれば、「差別は許されない」という条文が盛り込まれるという。
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「差別をなくすのはいいことではないか」と思うかもしれないが、欧米の実例を見ると、この種の法令制定は必ずしも、自由民主主義社会にいい結果だけをもたらしているとはかぎらないようだ。
今月19日に参院議員の山谷えり子氏が「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、女子陸上競技に参加してメダルを取るとか、ばかげたことがいろいろ起きている」と発言し、朝日新聞で批判的に報じられていたが、実際、欧米では発言にあるようなケースが問題になることは珍しくない。性的少数者への反発や社会的混乱も招いている。
◆山谷氏発言は暴言か
例えば、オバマ大統領時代の米国ではトイレをめぐる訴訟合戦が起きた。行政命令により、公立学校では生物学的な意味での男子も、自分を女子だと自認した場合、女子トイレを使用できるようにしたのだが、これに女子生徒と保護者側が反発。訴訟合戦に発展した。命令は廃止されたが、訴訟は今も続いている。
しかし、日本ではこうした問題を深く議論することがない。今回の法制定の動きにも言えることだが、「差別」とレッテルを貼られるのを恐れてか、表面的議論しか行われないのだ。
無論、すべての国民は憲法上、基本的人権が保障されており、人間としての尊厳が尊重されなければならないし、人格否定されるような差別的な扱いを受けてはならない。性的少数者であるという理由だけで就職できなかったり、同性パートナーとともに居住するためにアパートや家を借りることができなかったりすれば、人権侵害である。
この種の法制定は、こうした差別の解消を意図するものだが、しかし、同時に欧米では弊害も目立っているのも事実である。国によってその内容や罰則は異なるため一括(ひとくく)りには論じられないとしても、まずは米国で法制定後に生じた深刻な社会的軋轢(あつれき)をみてみたい。
米国では2009年、オバマ政権の下で、差別禁止法が施行されたが、その数年後、問題は起きた。
12年7月、米国では有名なフランチャイズレストラン「チックフィレ」の経営者ダン・キャッシー氏がテレビインタビューで同性婚反対の立場を表明したことから、ボストン市長が、ボストンでチックフィレがフランチャイズ店を出すことを許可しなかったのである。
連邦最高裁が同性婚を合憲と判断するのは15年のことだから、同性婚をめぐる賛否の議論は当時まだ司法でも結論が出されていなかったし、賛否には「良心の自由」「言論の自由」があるはずだった。しかし、それにもかかわらず、キャッシー氏の反対する自由は公権力の介入を受けた。
また、13年には、オレゴン州でケーキ店を経営していた夫婦が、レズビアンカップルから受けたウエディングケーキの注文を、キリスト教信仰を理由に拒んだために「差別」として告訴され、州裁判所で約20万ドルの罰金判決を受ける事件もあった。宗教上の立場から同性婚への協力を拒んだだけで、差別とされたのみならず、犯罪者とされたのである(判決は後に連邦最高裁で破棄されている)。
当時の米国には、すでに同性婚反対を認めない風潮があったから、こうした問題は法律がなくとも生じたかもしれない。しかし少なくとも、この種の法制定が同性愛者とその支持グループが主張する権利拡大を意図する一方で、そうではない個人・グループの権利を侵害・抑圧する流れに棹(さお)さしたことは事実であろう。
日本国憲法13条に定められているように、性的少数者も、そうでない人と等しく「個人として尊重されるべき」であることはいうまでもない。ただ、同条が保障する「生命、自由及び幸福追求に対する権利」は、あくまで「公共の福祉に反しない限り」という条件が付けられている。一部の個人、グループの主張する権利のみが絶対的に優先されるものであってはならないのだ。
◆米、教育現場での混乱
危惧すべきは、性的少数者を平等に扱おうとするあまり、そうではない人たちの権利や価値観を否定することにならないかということである。欧米では、実際にその種の問題が教育現場で生じている。
04年に同性婚が合法化された米国マサチューセッツ州ではその翌年、レキシントンのエスタブルック小学校で、子供に同性愛や同性婚を擁護する教育を受けさせることを望まなかった親が、学校に対し懸念を伝えて居残ったために、学校側が不法侵入で警察に通報。親が連行される事件が起きた。
子供のときから、同性愛を普通の男女間の愛や結婚と同じように教えられるということは、両方を区別しないということであり、異なるものを受け入れる寛容とは異なる。同性愛や同性婚を道徳・倫理的に、あるいは宗教的に容認できない多くの人たちにとっては耐え難いことだ。しかし、保護者はこれに口をはさめば、差別主義者とみなされ、逆に非難の対象とされるようになったのだ。
米国の一部州だけではない。英国では10年に制定された平等法の影響で、学校には同性愛、同性婚とトランスジェンダーリズム(個人の主観的な認識に基づいて性別を選択して決定すること)が正常であるということ、そして男女以外のさまざまな性があることを必ず教育することが義務付けられるようになった。
世界人権宣言には「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」とあるが、普通の男女間の結婚だけを教える教育を選ぶ権利は、親には認められないのである。
現在検討されているLGBT理解増進法案は「理解増進」を目的としたものと報じられており、必ずしも、これまで述べたような問題が当てはまると断じることはできない。ただ、はっきり言えることは、「性的少数者への差別をなくす」という美名の下、言論の自由、学問の自由などが制限される法律はつくってはならないということだ。
民主主義社会とは、どんな政治・社会・経済・教育の問題であれ、誰でも自分の意見を正々堂々と発言できる社会であるはずだ。今の日本にはまがりなりにも自由があり、例えば五輪開催、選択的夫婦別姓、憲法改正など、さまざまな問題について国民が自由に賛否を表明することができる。だからこそ日本は自由で民主的な国ということができる。同性婚や同性パートナーシップ制度も同じく賛否両論がある問題である。誰からも束縛されない、同調圧力に屈しない、開放的で自由な議論と真理への探究があってこそ、健全な議論が行われ、国家は発展していくのではなかろうか。
性的少数者もそうでない人も等しく国民である。一方の意見だけを認め、もう一方の意見は存在すら認めないのでは、差別を解消するどころか反対派への逆差別を生むだけである。表現・言論・学問の自由はすべての国民に保障されるべきもので、特定のグループだけのものではないはずだ。=次回は6月6日掲載予定
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【プロフィル】楊尚眞
ヤン・サンジン 2000年、米シカゴ神学大学院牧会心理学専攻牧会学博士課程修了。13年、同大学院宗教教育学専攻哲学博士課程修了。専門は宗教教育学・牧会心理学。著書に「キリスト教の人間関係論」(ダキュピア出版社)など多数。訳書に「同性愛は生まれつきか? 同性愛の誘発要因に関する科学的探究」(22世紀アート)など。