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秀吉の水攻めで自刃 「武士の鑑」は花になった

岡山市北区にある「高松城址(たかまつじょうし)公園」は、織田信長配下の羽柴秀吉の奇策で有名な備中高松城水攻めを後世に伝える史跡だ。公園内で7月上旬、毛利輝元配下の敗軍の将、清水宗治にちなんで名づけられた「宗治蓮(むねはるはす)」が咲き始めた。秀吉や黒田官兵衛と戦い敗れ、自らの切腹と引き換えに配下の5千人を救った宗治は、今も地元の人々に慕われている。

高松城址公園内の池に咲く宗治蓮=7月1日午後、岡山市北区
高松城址公園内の池に咲く宗治蓮=7月1日午後、岡山市北区
高松城址公園内の資料館にある備前焼の清水宗治像=岡山市北区(高田祐樹撮影)
高松城址公園内の資料館にある備前焼の清水宗治像=岡山市北区(高田祐樹撮影)

400年の眠り

7月上旬、公園内にある池で宗治蓮と呼ばれる蓮の花が咲き始めた。公園は岡山市が昭和50年度に歴史公園として整備に着手し、平成5年度に完成。宗治蓮は市が昭和57年に高松城の池を復元した際、400年前から地下に眠っていた蓮が自然に生えてきたものだという。毎年7月になると開花し始め、8月上旬ごろまで楽しめる。

同公園内には、宗治像を所蔵する資料館や宗治の首塚、公園近くには胴塚がある。首塚や胴塚には今も周辺住民からの献花や供物が見られる。

毎年6月4日の宗治の命日に合わせ、地元の有志の団体「高松城址保興会」が明治時代から続く「宗治祭」を主催。宗治の遺徳をしのんでいる。

同会のメンバー、浜田利弘さん(83)は「宗治公は窮地にあっても、保身に走らず、自分の命と引き換えに配下を守る覚悟のある人。そんなリーダーがいたことを多くの人に知ってほしい」と話す。

難攻不落の要害

高松城水攻めは天正10(1582)年、天下統一を目指す織田氏が、毛利氏と中国地方の覇権を争った合戦だ。高松城址公園資料館などによると、攻める織田氏側は秀吉軍3万人、守る毛利氏側は高松城主・宗治軍5千人だった。

軍勢だけを比較すると、秀吉軍の圧勝だが、高松城は周囲に湿地帯が広がる天然の要害。人馬が沼に足を取られて進みにくく、鉄砲などで狙い撃ちされることによる兵力の消耗を避けたい秀吉軍は攻めあぐね、籠城する宗治軍とのにらみ合いが続いた。

毛利氏の援軍が到着する前に落城させようと、近くを流れる足守川(あしもりがわ)を堤を築いてせき止め、湿地帯に水を引き込む奇策「水攻め」を官兵衛が進言。案を採用した秀吉は、土入りの俵を買い上げることを条件に、近隣の村民らを動員した。

大規模な土木工事によりわずか12日間で長さ約3キロ、高さ7メートルの堤を築き、高松城の周囲を湖のようにして孤立化させたという。宗治軍に加勢しようと駆けつけた小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍も見守ることしかできなくなった。

湖上の城と化した高松城は補給路を絶たれ、宗治軍は兵糧攻めに遭う。追い詰められた宗治は6月4日、自身の切腹を条件に配下5千人を助命するなどとする内容の講和を受け入れ、自刃した。見届けた秀吉は宗治を「武士の鑑(かがみ)」と称賛したと伝えられる。

武将たちのその後

公園内には宗治の辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」を刻んだ石碑がある。宗治の名は、現代に「宗治蓮」として残った。

秀吉は、水攻めの最中、本能寺の変を知り、毛利勢との講和を結ぶや否や、中国大返しを決行。明智光秀を討ち、信長の野望を引き継ぎ、天下統一を成し遂げる。

秀吉の辞世の句は「露と落ち露と消えにし我が身かな なにわの事も夢のまた夢」。天下人でありながら、自らを一滴の露として世のはかなさを詠んだ。

官兵衛はその後も秀吉配下の武将として活躍。九州征伐後には豊前(ぶぜん)六郡(現在の福岡県東部と大分県北部)の大名となった。40代にして嫡男、長政に家督を譲り、後に「如水」と名乗る。

如水という名は、「身ハ褒貶毀誉(ほうへんきよ)ノ間ニ在リト雖(いえど)モ心ハ水ノ如ク清シ」という古語から取ったのだろうと作家、司馬遼太郎は推測。「いかにも官兵衛という男の号らしい」と著書「播磨灘物語」に記している。

水攻めで名を成した秀吉と官兵衛の両者が、自らの辞世や晩年の名に「水」を折り込んでいたことは、古戦場の水面に咲く宗治蓮の観賞をより味わい深いものとしている。(高田祐樹)


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