話の肖像画

    デザイナー・コシノジュンコ(81)(14)「TD6」デザイナーの力を結集

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    《「TD6」。DCブランドが絶頂期の1974(昭和49)年、東京で活躍するトップデザイナー6人が結集した。6人は同時期にファッションショーを開催し、世界に発信。この取り組みは、やがて「四大コレクション」に次ぐファッションショー「東京コレクション」の母体となる。日本のファッション界の、新たな幕開けとなった》

    グループをつくろうと言い出したのは私です。きっかけは、やっぱり「花の9期生」の存在が大きかった。すぐに結束できますからね。すでに第一線で活躍していたニコルの松田光弘さん、ピンクハウスの金子功さんに声をかけて。そこに山本寛斎さん(カンサイヤマモト)、菊池武夫さん(タケオキクチ)、花井幸子さん(ユキコハナイ)が集まりました。みんな同世代で、仕事や遊びで知り合ったりした何でも言い合える近しい関係。意気投合して始めた、という感じでした。

    なぜTD6を始めたのか。それは、国際競争を意識してのことでした。

    東京の、日本のファッションを世界レベルに引き上げるには、個の力ではなく、デザイナー同士で協力する必要があったのです。

    《四大コレクションは春夏、秋冬の年2回開催される。期間中はさまざまなブランドが参加し、世界中からバイヤーやジャーナリストが集まる。そしてこれらが流行の発信地となる》

    当時日本では、個々のデザイナーが、時期や場所などバラバラにショーを行っていた。だから発信力がいま一つだった。

    一方、四大コレクションはニューヨークを皮切りに、ロンドン、ミラノ、パリで開催され、ジャーナリストらが次々にブランドのショーを回り、発信していく。パリコレクションでも、100超のブランドが同時期に、同じ場所でショーを行ったりします。春夏と秋冬のシーズンを定めて、期間を決めると、それだけ注目を集めることができるのです。

    そのためTD6では、まずショーを開催する期間を一緒にしました。そして、会場は近隣で行うか、大きな会場を借りて、時差を設けて1日に2回ショーを行うようにしました。

    私が帝国ホテルで大規模なショーを行うと、その近くの会場で大小さまざまなショーを開く。強弱を持たせて、同期間にやるというルールで。期間とシーズンだけは守るという緩やかなルールでした。

    この作戦はとてもよかった。6人の動きはとても注目を集めたし、メディアも効率的にショーや展示会を回ることができた。東京を「ファッション都市」として発信する機運を高めることに成功したと思います。

    《TD6には、後に山本耀司氏(ヨウジヤマモト)や川久保玲氏(コムデギャルソン)らも加わる。しかし、1981(昭和56)年、終焉(しゅうえん)を迎える》

    TD6は、実はそんなに何年も続けることができなかった。やっぱりそこは個性の強いデザイナー同士。それぞれぶつかり合いというか…。おのおのが違う考えを持っていて。同じ方向を向けなかった。結局、グループを組んでいてもいなくても、世界に進出する人はするし、しない人はしない。如実でした。

    でもそれは悪いことではないと思っています。TD6はのちに東京コレクションへと発展。これらを足掛かりに、多くの日本人デザイナーが世界へ羽ばたいていったのだから。(聞き手 石橋明日佳)

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