本日は八月朔日(ついたち)いわゆる八朔(はっさく)と呼ばれる日である。徳川家康が江戸城に入城したことを祝する日と言われるが、室町時代には、すでに武家で公式行事が行われており、本来は民衆の「田(た)の実(み)節句」、稲の収穫の繁忙期にお互い手を貸し合うために挨拶する日であった。
この稲の田植え、現代では農機具を使うところが多いが、昔は全て人の手で行われていた。苗は本当に綺麗(きれい)に一列等間隔に植え付けられ、これを仕付(しつ)けといった。日本独自の漢字「躾(しつけ)」の字を書く「しつけ」は、「仕付け」と別の言葉が相まって定着した言葉といえる。「身を美しく」。これは外見上のことのみを言うのではなく、人に迷惑をかけないように自身の在り方を正しくということである。綺麗に仕付けられた田に、日本の躾の根本をみるように思う。
日本の生活の基本は畳であるが、そこには「間」、すなわちゆとりが取り入れられており、人と人との融和を持ち、間を作ったところに、礼の世界が生まれていた。戦前の学校教育も厳しいものであったが、最近のように男女共学の中での見境のない「いじめ」はほとんど無かった。英明賢察の明治天皇は、日本の来(きた)るべき未来に対する志の指針として明治23年10月に「教育勅語」を出されたが、親兄弟姉妹みなが敬い合いこれがモラルの向上になると説かれ、教育すなわち国民の躾を導く根本になっていた。
しかし、敗戦によりこれを排し、米国の教育を丸々取り入れた。その建国の歴史ひとつをとっても米国とは全く異なるにもかかわらず、日本古来の美徳とされたものは民主主義に反すると廃棄され、いまでは自己本位な教えが幅を利かせている。
日本はかつて自国への過信や政治的短慮、外交上の失策などで、元々しなくても良かった不幸な戦争へと、天皇の名の下に舵(かじ)をきった。米国と誠意ある話し合いをしていればなどと今更申しても詮無(せんな)いことだが、思えば政治は明治維新の大政奉還以来、天皇にすべて責務を押しつけて日本の歴史を歪(ゆが)めてきた。
最近よく不徹底なる言葉の表現が見受けられるが、いつの間にかこの国の世相まで何事にも不徹底になってきた。例えば政治の世界では、与野党それぞれの立場で政策議論を交わしているが、それはしばしば何か尻切れとんぼのように不徹底に終わる。コロナ禍で医学専門の先生方の意見が大切なことは誰しもが認めるところで、政策を定める際に政治の場で議論されるのが当然であるが、中々しっかりとは取り上げられない。テレビを観(み)ながら「どうして?」と思ってしまう。政府の判断は何かつくられたような言葉、表現で説明され、私どもには実質的なものが見えてこない。
新型コロナウイルス感染拡大についても、専門医学的に具申されたものを確実に取り上げ、しっかりした内容を掲げられないのは、不徹底のなす大きな問題である。しっかりした対策をとり、指導力を発揮する構えがなくては、これからもっと大変なことになると私は危惧している。(せん げんしつ)