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【台湾日本人物語 統治時代の真実】(36)必ずや「東京五輪」実現を

76年前の話になる。昭和20年4月、こののち戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎(かんたろう)内閣が発足した。二・二六事件(11年)で九死に一生を得た海軍出身の老将は77歳。絶望的な戦局の中で、徹底抗戦、本土決戦の構えを崩さない軍人を牽制(けんせい)しつつ講和の道を探るという〝針の穴にラクダを通す〟ような難しい、かじ取りを任されることとなった。

下村宏=昭和26年
下村宏=昭和26年

鈴木内閣に下村宏(しもむら・ひろし)(海南(かいなん))が国務相・情報局総裁として入閣している。終戦の詔書(しょうしょ)を天皇陛下がラジオで伝えた、いわゆる「玉音(ぎょくおん)放送」の実施に深く関わったことで知られる人物だ。下村も古希が近い。〝最後の御(ご)奉公〟と心に期するところがあったのだろう。入閣後の5月、遺書をしたためている。

自著『終戦秘史』(25年)によれば、首相の鈴木宛(あ)ての遺書では《三国同盟及(および)大東亜戦に干与(かんよ)せる…重臣は…その進退を明にすること》として、東条英機(ひでき)(開戦時の首相)や近衛文麿(このえ・ふみまろ)(日中戦争勃発時の首相)、松岡洋右(ようすけ)(三国同盟締結時の外相)らを名指しして、隠居や辞任を求めた。まだ戦争が終わっていない時期に、である。

下村は8月14日夜、「玉音放送」の収録に立ち会う。終了後、下村らは放送を阻止しようとする反乱軍に監禁されるが、録音盤を宮内省(当時)で保管していた(所持せず)ことが幸いし、放送は翌15日正午から無事、行われた。

スポーツも尽力

下村ほどさまざまなジャンルで要職に就き、業績を残した人物も珍しい。

逓信省(現総務省)の官僚のときには「簡易保険」制度を創設した。メディア界へ残した足跡も大きい。戦時の日本放送協会(NHK)会長や、朝日新聞社副社長を務めている。

スポーツとの縁も深い。東京五輪の開催が決まったのは実は今回で3度目だ。下村は、紀元2600年に合わせて昭和15(1940)年に開催予定だった最初の東京五輪(日中戦争などで開催返上)に「大日本体育協会(体協)」会長として臨むはずだった。

五輪を、平和の祭典、スポーツの振興の場に、と位置づけていた下村は、中止がよほど無念だったのだろう。戦後の『終戦秘史』にこう書いている。《満七十五歳を過ぎた…なお幾多の希望を夢見ている》とした上で《今や戦いは終わった。必ずや東京大会の実現を見るべきである。その大会に列するまでは生きながらえていたい》と。

だが、その夢は叶(かな)わなかった。戦争復興のシンボルとして39年に開催された東京五輪の7年前に下村は世を去っていたからである。下村に代わって大会にかかわったのは、五輪担当の国務相、河野(こうの)一郎や組織委事務総長を務めた田畑政治(まさじ)ら朝日新聞時代の後輩らであった。

統治「中興の祖」

さて、『台湾日本人物語』としては、ここからが本題である。

下村は大正4(1915)年から10年まで、台湾総督府ナンバー2である民政長官(後に総務長官に名称変更)の席にあった。台湾統治の礎(いしずえ)を築いたのが後藤新平ならば、下村は「中興の祖」と言うべき多くの業績を残している。

第一次世界大戦後の世界は民族自決の流れが強まり、日本では大正デモクラシーと呼ばれる自由・民主主義的な風が吹いた。ただ、台湾や朝鮮など外地の統治が「武断」→「融和」へと変わるのは抗日の動きが収まり、安定期に入ったことが大きかっただろう。

台湾統治では、武官(軍人)しか就けなかったトップの台湾総督に文官が就任(8代、田健治郎から)できる道が開かれる。鉄道、道路、港湾、灌漑(かんがい)設備などインフラ整備に拍車がかかり、産業、農業が発展。「内台」は一体であるとして、台湾人の教育制度の整備が図られ、中・高等教育の道も開かれた。

こうした時代に、日露戦争の攪乱(かくらん)工作で名を馳(は)せた7代台湾総督、明石元二郎(もとじろう)(1864~1919年)らとのコンビで、推進役となったのが下村である。

自由主義者、もっといえばリベラル派というべき下村は、台湾議会設置請願運動などを推進した台湾人の民族運動指導者、林献堂(りんけんどう)とも親交があった。中央集権→地方自治への流れを加速させ、実現には至らなかったものの、議会設置も視野に入れていた。

第二の故郷台湾

この時期、台湾の近代スポーツも大いに発展した。下村は、大正9(1920)年「台湾体育協会」を創設し、会長に就いている。日本から指導者が渡台し、競技場が造られ、多くの大会が開催された。

昭和11年度版『台湾の教育』(台湾総督府編)によれば、協会加盟競技部は庭球(テニス)▽野球▽陸上競技▽水泳▽相撲▽球技(バスケットボール、バレーボール、サッカー、ホッケー、ラグビー)の6部。とりわけ水泳の記述には力がこもっている。

《常夏の国たる本島に於(お)いては水泳には最も恵まれて居(い)る為(ため)に…全島各地にプール(総数十六)が出来(でき)、技術も長足の進歩をなしつつある…》(11年度版『台湾の教育』から)。4年からフィリピンとの間で対抗競技会が隔年で開催されていることも特記されている。前回書いた水泳と化学〝二刀流〟の霜三雄(しも・みつお)が出場した国際大会だ。霜が「下村海南」の名を冠した優勝カップを抱えてにこやかな笑顔を見せている写真も残っている。

下村は、文官出身の田とソリが合わず、大正10年4月、台湾を去る。先述の『終戦秘史』にはこう書いた。《足かけ七年在職した台湾は、私にとりては第二の故郷であった…高砂の島(台湾のこと)旧友と手をにぎり、しみじみと昔語りをしてみたい》と。=敬称略(編集委員 喜多由浩) =次回は18日掲載予定

【プロフィル】下村宏

しもむら・ひろし 明治8(1875)年、和歌山県出身。旧制一高から東京帝大政治学科を出て逓信省(現総務省)入省。大正4年、台湾総督府民政長官に就任し、10年まで務めた。その後、朝日新聞社副社長、貴族院議員、大日本体育協会会長、日本放送協会会長、鈴木貫太郎内閣の国務相(情報局総裁)などを歴任した。昭和32年、82歳で死去。号は海南(かいなん)。


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