書評

    『九十歳のラブレター』加藤秀俊著 急逝した妻との心の旅路

    何とみずみずしい文章なのだろう。まるで少年のようだ。未来学やメディア論など多くの分野で活躍してきた社会学者の亡き妻との心の旅路とでもいおうか。共に齢(よわい)90になろうとする夫婦は互いをいたわり、妻の心筋症が重くなってからは朝食の支度は夫の役目だった。

    ある朝、妻の寝室に声をかけても答えがない。突然、妻は逝ってしまった。ことばひとつ残さず、ひとりで。喪失感の中で妻を取り戻すかのように、2人で過ごした70年の思い出がつづられる。

    東京で男組、女組と分かれていた小学校時代の同級生だった。戦後、駅のホームでの再会、血のメーデー事件(昭和27年)で警官に追われる中での奇跡的な遭遇、そして結婚、外国での新婚生活…映画のシナリオのように2人の旅は続いた。

    まだ海外への渡航もままならない1950年代、妻は貨物船でアメリカ大陸に入り、若い研究者だった夫の待つボストンへ。さらにケンブリッジ、アイオワ、ハワイ、国内では京都と、住み慣れた東京を離れて時代より一足早く核家族の暮らしを続けた。

    それらの地で紡いだ出来事のスナップ・ショット―シカゴの寒い冬、退屈な時間を埋めるためにチェスを覚えたこと、名も知れない草木に関心を寄せ、植物園でこっそり葉や小枝を失敬したことなど。現代では夫の転勤に家族がついていかないのが普通だが、2人の暮らしは、夫婦が貴重な「共通体験」を持つチャンスであることをも示唆している。

    老いによる生活への影響もユーモラスに紹介する。デパートでの待ち合わせ場所を忘れたこと、携帯電話の置き忘れなど、いわゆる認知症が夫婦にも現れるが、それを「ニンチごっこ」として笑い飛ばす。だれにも確実にやってくる老いの日々に交わされた妻のことばを宝石のように拾い集めている。

    東京・山の手育ちの知的階層夫婦の間に流れる時間、戦中戦後を生きた世代にとっては懐かしい光景も語られる。喫茶店の少なかった時代の駅のベンチでの語らい、今は姿を消してしまった老舗の立ち並んだ銀座の街並のことなど、セピア色のベール越しによみがえる。(新潮社・1650円)

    評・永井多恵子(演劇ジャーナリスト)


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