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【本郷和人の日本史ナナメ読み】鎌倉の文書行政㊦ 「下文(くだしぶみ)」格差と幕府の地域観

前回は源頼朝の下文(くだしぶみ)の話をしました。

小山高朝像(模本、東大史料編纂所蔵)
小山高朝像(模本、東大史料編纂所蔵)

①建久3(1192)年に征夷大将軍に任じられると、頼朝は従来の下文を回収し、新しい形式の下文を発給した。従来型は頼朝自身が御家人に語りかけるかたち。新型は幕府の役所である政所が御家人に通達を下す。

②『吾妻鏡』には下総(しもうさ)の千葉常胤(つねたね)がこれに反発したとある。頼朝自身の花押(かおう)(サイン)がない新型では、後世までの証拠にならない。私には従来型を再発行してほしい。頼朝はそれを受け入れた。

③千葉がもらった文書は失われて残っていないが、下野(しもつけ)の小山朝政がやはり新型に加えて従来型をもらっている。その文書の現物は現在に伝わっている。

こんな話でした。今回は、その続きです。

千葉常胤は下総国の最有力者。小山朝政は下野第一の武士。彼らは広い領地を有していて大きな兵力を保持しています。筑後権守(ごんのかみ)俊兼が頼朝にたしなめられた話は以前にも紹介しましたね。頼朝は贅沢(ぜいたく)をする文官の俊兼を叱ります。千葉常胤や土肥実平(さねひら)はお前と違って無学だが、質実剛健、ということを知っている。倹約を心がけ、余った資源で兵を雇い、いざというときはその優勢な兵力をもって私に忠節を尽くしてくれるのだ、と。

同じような話は小山にもあります。文治5(1189)年、頼朝は平泉討伐のために奥州へ向かう途中、下野の小山政光の屋敷に立ち寄りました。政光は朝政の父親です。もてなしの場に熊谷直実の嫡子・直家がいたので、頼朝は政光に「この者は本朝無双の勇士だ」と紹介します。「一ノ谷など平氏追討の戦場で、父とともに命がけで戦ったのだ」。すると政光は笑って言いました。この直家は、家来を養えないため、自ら戦うしかないのです。私は郎党を派遣して勲功を挙げ、頼朝さまに尽くしています。なあ皆の者、今度の戦では、先頭に進んで自身で手柄を立て、無双の勇士と褒めていただこうではないか。

頼朝は苦りきったでしょうが、政光の言葉は正しい。戦は数だ、というリアルを、鎌倉武士は体得していました。そして兵力の多い武士として、千葉と小山が例にされている。この国にその人あり、とうたわれる武士は、300ほどを率いていた、というのがぼくの見立てですが、すると千葉や小山の兵力は500ほどを数えたのでしょうか。


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