先の大戦末期、茨城県日立市は主に市内の軍需工場が米軍の標的とされ、爆弾の投下、艦砲射撃、焼夷弾(しょういだん)攻撃と3度の戦災に見舞われて1千人以上が犠牲となった。当時、9歳で壮絶な光景を目の当たりにした皆川直司さん(85)=日立市相賀町=は「あとに続く世代に伝えたい」と自身の戦災体験を語り継ぐ活動に懸命だ。
戦前から日立市の産業の中心を担った日立製作所は戦争の長期化で軍用航空機の部品や高射砲など、軍需製品の生産に力を注いだ。
昭和20年6月10日午前9時ころ、現在の小学校に当たる国民学校の4年生だった皆川さんは、米軍の爆撃機「B29」の爆音が響く中、自宅庭先の防空壕(ぼうくうごう)へ家族6人で避難した。
「ヒューンという音に続き、ズシーンという爆発音が響いた」。現在の日立市相賀町にあった皆川さん宅から約300メートル離れた日製海岸工場を狙い、100機以上のB29が4度にわたる波状攻撃で1トン爆弾約800発を投下した。工場従業員と市民ら900人近くが犠牲となった。
約1カ月後の7月17日深夜、皆川さんは空襲を知らせるサイレンで目を覚ました。飛行機の爆音は聞こえない代わりにヒュルヒュルという音に続き、爆発音が聞こえた。「何がどこから飛んできたのか、分からなかった」と皆川さん。
様子を見に防空壕を出た父親が「海から大砲を撃っている!」と叫んだ。太平洋の沖合から、米戦艦など7隻が日製の工場めがけて艦砲射撃。悪天候のため、900発近い砲弾の多くは目標を外れて住宅地などへ着弾し、市民ら400人以上が命を落とした。
2日後の19日深夜には、130機近いB29が来襲。約1万4千発、1千トン近い焼夷弾の雨を降らせる無差別攻撃を行った。海岸線の岩場に作られた防空壕へ逃げ込んだ皆川さんは、海に落ちた焼夷弾の火が消えず、波が炎に包まれる光景を目にする。「まさに火の海だった」。この空襲で市街地の6割以上が焼失し、70人近くが亡くなった。
ようやく8月15日に終戦を迎え、皆川さんは「きょうからゆっくり安心して寝られる」と子供心にホッとしたという。
戦後に教諭となり、主に市内の中学で社会科を教えた皆川さんは毎年6月になると、授業の中で「日立は紛れもなく戦場であった」と自分の3度の戦災体験を生徒へ伝えた。ひとたび戦争が起これば、必ず一般市民が巻き込まれる、と伝えたかったからだ。
今月15日の終戦の日には市内の「日立市平和展」会場で戦災体験を語る予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大で催しは中止となった。それでも「戦争の記憶を風化させないために」と皆川さんは今後も語り継ぐ意欲で満々だ。(三浦馨)