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【歴史の転換点から】人譚(ひとがたり)─渋沢栄一が見た幕末維新と明治⑤福沢諭吉─「紙幣の裏表」の名コンビ

今回からしばらく、渋沢栄一が幕末維新期と明治期に出会った幕臣や旧幕府方の人物、また明治新政府仕官時代の上司たちに焦点をあててみたい。まずは令和6年度上期に渋沢と交代する1万円札の「顔」─啓蒙(けいもう)思想家で教育者、慶應義塾を創立した福沢諭吉についてである。

講演後、手を振る「渋沢栄一アンドロイド」。70歳ごろの渋沢がモデルという=埼玉県深谷市、渋沢栄一記念館(関厚夫撮影)
講演後、手を振る「渋沢栄一アンドロイド」。70歳ごろの渋沢がモデルという=埼玉県深谷市、渋沢栄一記念館(関厚夫撮影)

初対面で憮然(ぶぜん)

「余(渋沢)は先生(福沢)に対して、最初のうちは何となく疑念を抱き、また何となくへんてこな関係になっておったことを感ずる。しかしながら、後年に至っては、よく先生の先生たるゆえんも了解さるるにいたり、初めてまれに見る偉人であることを知ったのである。(中略)いまさらながらもう少し先生に親しみ、近づいておけばよかったとも思う」

渋沢は武蔵国(埼玉県)の豪農出身、福沢は九州北東部・中津藩の軽格武家出身ながら、ともに幕臣に取り立てられた。しかし、渋沢は幕末、福沢の存在すら知らなかったという。

というのも渋沢は一時は倒幕を考えるほどの尊王攘夷主義者であり、また「元来儒学的教育をもって養われ、(中略)いわゆる保守主義を奉じていたものであるから、もちろん外国のことなどは知らなかった。また知ろうとも思わなかった。従って当時の洋学者のごときは、これを異端邪説の徒(やから)と見ておったのである。ゆえに、当時率先して洋学を鼓吹し、新思想の宣伝に努めていた福沢諭吉先生のことも一向に存じなかった」からだ。

渋沢の外国に対する考え方は幕末末期から維新初期にかけて、15代将軍、徳川慶喜の名代として渡仏した慶喜の弟、昭武(維新後、水戸藩主)に随行したことによって転回する。

帰国後、静岡藩を経て新政府に出仕した渋沢は税制や貨幣・金融改革などに取り組むことになり、面識はいまだなかったものの、「当時の碩学(権威)」だった福沢に会見を求めた。ところが、「余は主として度量衡改正について先生の意見を求めに参ったのであるが、先生は初対面の余に向かって御自作の『世界国尽(づくし)』や『西洋事情』を取り出し、種々教示さるるところがあった。余はとにかく一風変わった人だということを初対面のときから感じたのである」。

へんてこな関係

明治6(1873)年、奮然と大蔵省を去って以降、「政治には関係せず」が渋沢の信条だった。が、一時期、盟友の旧幕臣、福地桜痴(おうち)と福沢がともに東京府会議員として「争覇」戦を繰り広げていたさいには、「もちろん、直接には争いの渦中に投じなかったものの、陰に福地を助けて、福沢先生に反対したものである」と告白している。前述の「何となくへんてこな関係」とは当時のことを指すのであろう。

また、福沢の明治前期の著作で大ベストセラーとなった『学問のすゝめ』の第7編で、直接的な表現ではないものの、鎌倉末・南北朝期に尊王を体現した武将、楠木正成の死を主人の金を落としたために首をくくる「権助」と同等にとらえるようなくだりがあったことについて渋沢は「これは余のどこまでも同意しかねる御説である」とし、こう続けている。

「『忠孝は人たるの本』という思想は毫頭(ごうとう=毛頭)疑惑の生ずるを許さぬ(渋沢の)主義である。(中略)もちろんこれ(「楠公権助論」として物議を醸したこと)には(福沢)先生として種々なるご弁駁(べんぱく=反論)があり、後には皆明らかになったことであるが、余は今日でも、あれだけは先生として激越に過ぎたことではなかったかと思う」

以上はもっぱら『渋沢栄一全集』3巻収載「福沢先生及び独立自尊論」(大正6=1917年)によったが、明治45年発刊の『青淵(渋沢の雅号)百話』では、福沢が説いた独立自尊論について「西洋の自由思想、個人主義を日本へ伝えたものであったから、東洋旧来の陋習(ろうしゅう=悪習)を革新するためには効果があったには相違ないけれど、その余弊がないわけではない」としている。

二人三脚開始

渋沢が「余弊」としていわんとしたことは、「福沢先生及び独立自尊論」にある「それをみだりに誤解して、傲慢に流るること、不遜にわたることをあえて言行するに至っては沙汰の限りである。ここはどこまでも東洋流に謙譲すべきは謙譲してこそ、一身もよく修まり、一家もよく治まり、一国もまた、平和なるを得るのである」という一節に尽きるだろう。

そんな2人がコンビとしての面目を施したのが日清戦争(明治27~28年)での銃後の支援だった。当初は福沢の筆の力と渋沢の口(講演・遊説)の力で「国民の精神の鼓舞し、出征者を後援する」ため、百万円の寄付を募ろうと計画していた。が、ときの内閣総理大臣、伊藤博文による「金額としてはけたの違う軍事公債募集に尽力を」との依頼を受けて方針を転換することになった。

『日本銀行百年史』によると、公債募集は1回目(3千万円、27年9月)と2回目(5千万円、同年12月)に分けて行われた。総額の8千万円は当時の経常予算額とほぼ同じ、27年上期末の市中銀行預金残高の49%という巨費だったが、2人の尽力もあり、いずれも募集の2倍前後の金額の応募があるという「予想外の好結果」となった(第1巻2章8項「日清戦争時の政策運営」)。

特に2回目のときは、渋沢はがん治療で病床にあったが、「福沢先生はほとんど独力をもって東奔西走され、また筆を縦横にふるっ」たため、「従前の行き掛かり上、特にこれに感佩(かんぱい=心から感謝して忘れないこと)した次第である」と述懐している。

「言行一致」

「先生が極力、商工業・実業界の活動を主張せられ、実業界の人は政治界の人と区画すべきでない、少なくも両者は同じ列にせねばならないと言われたのは全く先生のすぐれたお考えによるものであった。この点において余は先生と主義を同じゅうする者である」

前述の「福沢先生と~」前半の一節である。またこの著述の後半、渋沢は「福沢先生の特徴」として、「見識が高いがゆえに何ものにも屈さず、恐れることがなかった」「何ごとにつけても目の付け所が早かった」という2点を挙げたうえで、もう一つ、「特に推奨されるべき」点として以下のように述べている。

「神聖なる国の発達はどうしても富の力に待つほかないと主唱された一事である。これは、当時の人としては誠に驚くべき卓見であって、学者側になおこの言をなされた人あるは推服(心服)に値する。そしてこれは先生と余と偶然一致した意見であって、先生はそれを口に説き、余は自ら行ったのである」

やはり渋沢と福沢の2人は、紙幣の裏表─いやコインの両面だった。

(編集委員・関厚夫)


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