本シリーズを今回、ひとまずしめくくるにあたり、「日本近代資本主義の父」と称される渋沢栄一の原点である故郷の武蔵国・血洗島(ちあらいじま)や手計(てばか)の人たちにまつわる逸話を紹介したい。NHK大河ドラマ『青天を衝(つ)け』ファンの方のなかには「あれ? 放送の内容と違うぞ」と感じる方もおられるだろう。そんな史実とドラマの「間」を楽しみながら読み進めていただければ幸いである。
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この父にして
「このとき家を去ることを親が許してくれたのは、私は今もなお、わが子をよく知ってくれていたと真に敬服するのです。(父・市郎右衛門が私に)『世間では親孝行というと子がするものと思うけれども、私はそうでないと思う。あれは親が子にさせるので、子がするのじゃない(後略)』と申されたのです」
昭和2(1927)年、87歳の渋沢栄一は続けて「(父の言葉は)今もなお名言と深く思うております」と追想している(『雨夜譚会談話筆記』=旧仮名遣い・旧漢字など一部編集、以下の引用も同様)。
「このとき」とは、文久3(1863)年晩秋。尊王攘夷と倒幕の先駆けとして計画した「横浜焼き打ち」は断念したが、情報が幕府側にもれたきざしがあったため、故郷を去り、当時の政治の中心地・京都に向かう意思を市郎右衛門に伝えたさいのことだ。
「及ばずも不孝の子にならずにすんだのは、父が私に孝を強いず、寛宏の精神をもって私に臨み、私の思うままの志に向かって私を進ましめてくだされたたまものである。(中略)子が孝をするのではなく、親が子に孝をさせるのである」
栄一は『論語と算盤(そろばん)』でそうも説いている。一児の父である筆者も胆に銘じたい。
藍より出でてより青く
「勤勉ということにかけては、予が家を挽回したばかりでなく、ついには血洗島随一の資産家たる実家・宗助に次ぐほどの家産をつくり出したほどの勤勉家であるから、働く欲は極めて深いが、物惜しみをするという風はみじんもなく、一旦緩急あれば丹精してつくり上げた身代をなげうってもいとわぬ気性もあった」
大正2(1913)年、73歳の栄一は亡き父についてそう語っている。
市郎右衛門は「藍の中からでも生まれてきたかのよう」だったと栄一が述懐するほど藍玉の生産・事業に才能を発揮した。竜門雑誌(※)の考証によると、栄一の実家は農家としては小地主だったが、市郎右衛門が開拓した藍玉商によって財をなし、年間売上高は1万両以上にも達した。栄一の記憶では、20両の売り上げから3~5両ものもうけがあったという。
現代でいう「純益」としてよいか否かは別として、単純計算で年1500~2500両もの「もうけ」になる。これに対する一種の課税が領主・岡部藩が徴収した「御用金」なのだが、その傍若無人な取り立てに憤慨した栄一が封建制度の打破を志すようになるのは『青天を衝け』や諸書が伝える通りである。
慈悲善行の母
前述の栄一の回想にある市郎右衛門の実家とは「東の家」と呼ばれた同族の渋沢家。もとは栄一が生まれた「中の家」が宗家だったが、栄一の祖父の時代に家勢がかなり衰え、男子の跡取りもなかった。このため宗助の三男だった市郎右衛門が婿に入ることになった。武士になる夢を抱いていた市郎右衛門は一度は断ったものの、「家の全権をまかせてもらう」ことを条件に承諾したという。
そんな経緯だけに市郎右衛門は「専制ぶり」を発揮することもあったようだ。栄一によると、「母などがいうことを聞かぬと大変叱り飛ばされた。お母さんが『旦那はよく人をお叱りになる』と言われると、お父さんは『叱る気ではないが、そんなわからないことを言うから叱る』と言って叱られた」(『雨夜譚会談話筆記』)という。
栄一の母、えいは隣家のハンセン病患者にもわけへだてなく世話をする「慈悲善行に富んだ人」だった。市郎右衛門が「おまえはたくあんの腐ったのでも他人にあげる人間だ」と評したところ、えいは「たくあんが少しくらい辛くても人にあげてもよいじゃないですか。たくあんさえ食べられない人たくさんいますから」と反論した、とも栄一は語っている(同)。
不幸な分身・長七郎
手計(下・上手計村)は血洗島の隣村である。栄一の10歳年上のいとこであり、「兄」と呼んだ漢学の師─その妹の千代を栄一が妻としたことから名実ともに兄となった尾高惇忠は、彼の父の代ですでに家産が傾いていた、手計の名主の家に生まれた。
「長七郎は撃剣はとびぬけて強かった。力においては私はひけをとらなかったが、竹刀をもってはまるで子ども扱いにされた」
栄一が『雨夜会談話筆記』でそう述懐した長七郎は惇忠の弟で、栄一よりも2歳年上。惇忠が残した追悼文によると、元治元(1864)年に誤って人を斬り、江戸・伝馬町牢に投獄されるまで、長七郎は長州藩の久坂玄瑞、薩摩藩の中井弘、水戸藩の原市之進、出羽の清川八郎らそうそうたる面々と交友があった。志士として栄一よりもはるかに先をゆく存在だった。
前述の「横浜焼き打ち」計画を体を張って止めたのも長七郎だった。が、出獄後まもない明治元(1868)年11月、失意のまま故郷で世を去った。その病床で、惇忠や渡仏中の栄一の養子となった弟の平九郎、竹馬の友の幕臣、渋沢成一郎が明治政府に対して挙兵したと聞き、「成一郎と平九郎は成り行き上、やむを得ぬが、兄君はそれほどの縁はなく、もとは(横浜焼き打ちに乗じて)倒そうとまで考えた幕府の滅亡にあたり、その難に殉じて身を顧みぬとは俠気(きょうき)というにもほどがある」とつぶやいた(『ははその落葉』)という。
「才能の士、何ぞその末路の余りに不幸なる。自分は長七郎の死を思うごとに、長七郎は自分のために身代わりしたのだと思われてならぬのである」
晩年に近づきつつあった栄一の追憶である。
佳人・千代の生涯
さきに引いた『ははその落葉』は追悼随筆である。作者は栄一と千代の長女。枢密院議長も務めた法学の大家、穂積陳重に嫁ぎ、良妻賢母の歌人としても知られた歌子。題名の「はは」とは千代のことである。
「母上はお姿が大層ほっそりしていて、綺羅(きら=華美な衣服)にも堪えぬようなご様子でいらっしゃった。しかし、ご気性は雄々しくて、まだお若いころから織り紡ぎ、養蚕はもちろん、石臼で麦粉をひき、殻竿(からざお)で干した豆を打つような荒々しい労働も、人に遅れず務められたという。(中略)それゆえ、母上のお手は色白で細いに似合わずお指の節が太く、また物をもち上げる力は、肥え太った女中たちよりずっと強くあられた」
歌子はまた、次のようにもつづっている。
「外見はなよ竹が雪にたわむように痛々しく見えたのであろう、中の家の祖母上(えい)は常々、『千代の姿のしなやかなのは、深窓で奥さまとかしずかれるにはよかろうが、私たちくらいの身分の家には形はどんなに品が悪くとも、骨太な生まれつきの者の方が良い』と言われたそうである。父上が出世されて後、祖母上が初めて東京・湯島の家に来られたとき、母上のご様子をつくづくごらんになって、『ほんに、このような身分になる宿世があるとも知らないで、田舎の家の主婦には似合わしくないのを残念に思ったのはばかであった。あのころ私が望んだような生まれつきだったら、今になってはさぞ不満な気持ちがするだろう』と言われたそうだ」
家政を切り盛りし、わが子ばかりか栄一を頼って寄宿する書生たちの「母」ともなる。芸術・人物鑑定にすぐれ、恩威並び立つ存在。その片鱗(へんりん)は、無愛想さと武骨さをてらう若い親類に厳然と「お前には真の色男になってもらいたい。しかしそれはにやけた遊び人ではなく、万事に通じ、もののあわれも知っていて、女子から命がけで慕われる男のことです」などと諭した逸話からもうかがえる。
千代は明治15年7月、満41歳を前に逝く。このときだけで3万数千人の命を奪った感染症・コレラ禍によるものだった。百箇日(ひゃっかにち)に営まれた本葬のさいには2千~3千人が参列したという。
「悵然(ちょうぜん)として懐旧し、涙潜然(せんぜん)」
恨み、嘆きながらおまえの早世を思い、涙がさめざめと流れる─の意だろう。千代の一周忌に栄一がささげた漢詩の初句である。
(※)現在の渋沢栄一記念財団の前身である竜門社が発行していた機関誌
=この項おわり(編集委員 関厚夫)