ロシアのプーチン政権がなりふり構わぬ対日「歴史戦」に乗り出した。第二次大戦中の日本を「悪の権化」として徹底的におとしめ、その「戦争犯罪」を国内外に宣伝する。それにより、日ソ中立条約(1941年)を破っての対日参戦(45年8月)や北方領土の不法占拠、戦後のシベリア抑留など、大戦にまつわるソ連の不法行為を帳消しにしようという魂胆である。
日本政府がこれに沈黙していれば、ロシアの虚構に満ちた歴史認識が一人歩きし、真実であるかのように世界に広がる恐れがある。
ロシアの対日歴史戦は今夏、一気に激しさを増した。8月、露連邦保安局(FSB)が旧関東軍に関する「機密文書」を相次いで公開し、国営メディアが大々的に報じた。
公開されたのは、関東軍元将兵らが戦後の抑留中、ソ連当局の尋問に語った「証言」だ。ロシアはこれらの文書により、①日本は中立条約に反して対ソ開戦準備を進めていた②日本は細菌戦を計画し、ソ連人捕虜への人体実験も行った-と主張しようとしている。
「対ソ戦に使う目的で結核菌やパラチフスB菌の研究を行っていた。対ソ戦は45年6月に始まることになっていたと聞いている」。文書の一つは、七三一部隊(関東軍防疫給水部)元尉官のこんな供述だ。「七三一部隊では人体への細菌の影響が研究されており、私はそこに(ソ連人捕虜)約40人を送った」とする元収容所長の証言もある。
今年9月上旬には極東ハバロフスクで、旧ソ連が日本の戦犯を一方的に裁いた「ハバロフスク裁判」(49年12月)に関する学術会議が開かれた。ナルイシキン対外情報局(SVR)長官が代表を務める露歴史協会やFSB、外務省などが共催したこの会議では「ソ連軍が日本の細菌戦を防ぎ、世界を救った」という認識が強調された。ラブロフ外相は会議に寄せたメッセージで「日本軍国主義の残虐行為を将来まで記憶することが重要だ」と述べた。
一連の文書公開やハバロフスク裁判の会議について、シベリア抑留研究者で翻訳家の長勢了治氏は「明白なプロパガンダであり、『日本は悪い国だから言うことを聞く必要はない』という流れをつくろうとしている。中国の習近平政権が進めてきた反日の歴史戦と軌を一にするものでもある」と警鐘を鳴らす。
「七三一部隊の細菌戦研究はこれまでもロシア側でいわれてきたことだが、それを文書公開の形で改めて持ち出してきた」。長勢氏はこう指摘し、同部隊関係者らを裁いたハバロフスク裁判についても「全く正当性がない」と強調する。
関東軍将兵らの長期抑留自体が国際法(ジュネーブ条約)やポツダム宣言に違反する不法行為だった。ハバロフスク裁判は東京裁判(極東軍事裁判)などと違い、ソ連の国内法によるもので、スターリン時代の「結果ありき」の裁判でもあった。「裁判では一切の自由を奪われ、弁護士もない状況で尋問された内容が証拠とされた。法的効力は認められない」と長勢氏は話す。
歴史の真実は、日本が日ソ中立条約を順守したからこそ、ソ連は熾烈(しれつ)な対ドイツ戦に勝利できたということである。ロシアの身勝手きわまる言動に対し、外務省や日本大使館から抗議や反論が全く聞こえてこないのは不思議でならない。(外信部次長兼論説委員)