我(われ)、事(こと)におゐて後悔をせず 『独行道(どっこうどう)』
剣豪、宮本武蔵が生まれた天正12(1584)年は、小牧・長久手の戦いが起こった年である。
この戦いの後、豊臣秀吉は各地の戦国大名に「惣無事令(そうぶじれい)」を出し、刀槍で成り上がる時代に事実上の終止符を打った。武将としての武蔵は、生まれると同時に死んでいたのである。
だが、武蔵はそんな時代に逆行するように、自身の心を将、身体を兵に見立て、これを自在に動かす「兵法」を開発して敵に打ち勝ち、自らの将才を証し立てようとする。
13歳で臨んだ初めての決闘を皮切りに、29歳まで六十余回の勝負すべてに勝利したという。中でも21歳の頃、京都の著名な武芸者と数度にわたる勝負をして勝ったというエピソードは、武蔵の名を大いに高めた。そして巌流という武芸者と豊前小倉藩の舟島(現山口県下関市)で行った決闘は、「巌流島の決闘」として語りぐさになっている。
この間、武蔵はさまざまな武器を吟味(ぎんみ)して使いこなすこと、頭のてっぺんから足の指先まで適切に運用すること、確実に相手を仕留めるための仕掛け、そして、必殺の気魄(きはく)を高めるための心構えまで詳細に探求し続ける。
勝利にこだわるこの執念はどこからくるのか。
武蔵にとって兵法とは、徹底した合理的思考と強靱(きょうじん)な精神力を援用し、あらゆる困難や誘惑に打ち勝ち、優れた指導者になる方法論だった。武蔵は武将として、万民の守護者となることを志していたのだ。兵法を体得すれば、人材を蓄え、集団を指揮し、身持ち正しい政道が実現できる。
だがしかし、関ケ原の戦い、大坂の陣、島原の乱と多くの戦乱に関わったものの、時代は既に槍ばたらきで一国一城の主になれる段階を過ぎており、泰平の時代にあって、戦闘術としての武芸以外に兵法の居場所はなかった。
時代が許さぬ志を、武蔵は「剣」での無敗により主張した。それは、己の不遇との戦いでもあった。
武蔵は、瞑想(めいそう)や議論ではなく、徹底した道具立てと技能の修練による百戦錬磨の成果にのみ、理想とする兵法が立ち現れてくると考えていた。
それは、あらゆる職業において、日々毎々の実践と工夫の積み重ねの末にのみ、いわく言いがたい名人芸や見識などが身につくことと符合する。学問的・宗教的観念を疑い、生活に存在する「道」だけを信ずる日本人の民族的思想が、生き死にを懸けた武蔵の内面で、容赦なく研磨されたのだ。
求道心を発揮したのは武芸だけではなかった。武蔵は多くの書画を残しており、余白を十二分に生かした枯淡な画の数々は、武蔵の内面世界を表現しているようにも見える。
また、連歌や工芸の他にも、姫路藩(現兵庫県)の依頼で行った町割(都市計画)や寺院の作庭では、空間演出に才能を見せている。これらは全て、物事を徹底的に合理的につきつめていく武蔵の求道心の発露である。
29歳で決闘をやめた武蔵は、以後はひたすらに自らに向き合って求道する日々を送ったが、そんな武蔵を各地の大名らが放っておくことはなかった。
姫路藩主・本多忠刻、尾張藩(現愛知県)家老・寺尾直政、小倉藩主・小笠原忠真、延岡藩(現宮崎県)主・有馬直純などと交流を持ち、各地に「円明流」と名づけられた武蔵の剣術が伝播されていった。最終的には肥後藩(現熊本県)主・細川忠利に招聘(しょうへい)され、「客分」として7人扶持に屋敷、さらには鷹狩りの権利を与えられるという破格の待遇を受けることとなる。先に挙げた数々の作品が生み出されたのも、この熊本の地である。
細川家の庇護の下、熊本金峰山にある霊巌洞に籠もった武蔵は、代表作である『五輪書』の執筆にとりかかり、みずからの兵学思想をまとめあげた。そして『独行道』を書き上げた直後の正保2(1645)年、武蔵は自邸で没する。
「人生で行った全ての決断について、後悔はしない」という標題の言葉は、生まれつきの不遇を一刀両断に斬り捨て、指導者の人生を孤独に強行した、武蔵の無敗宣言である。
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大場一央(おおば・かずお) 昭和54年、札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理―王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。































