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【真説 日朝文化史】(4)キム・ヨンジャ訪朝公演㊦拉致問題で一転、バッシング

韓国の女性歌手、キム・ヨンジャ(1959年~)が2001、02年と、2年続けて北朝鮮で行った公演は、大反響を呼ぶ。最初の訪朝となった01年4月の動きを詳しく振り返ってみたい。

新潟―ウラジオストク(ロシア)経由の飛行機で5日、平壌に到着したヨンジャ一行を、文化芸術次官らが出迎えたことを2日後の平壌放送が伝えている。北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)の誕生日(15日)に合わせて開催される「4月の春 親善芸術祝典」に参加するため、と報じられている点が興味深い。この時点でヨンジャの公演に対する北朝鮮側の認識は、「芸術祭の一部」という位置づけだったことが分かる。

最初の公演は7日、約1500人収容の平壌・青年中央会館で行われ、文化芸術相、副首相などを歴任した芸術外交の実力者、張(チャン)徹(チョル)も駆け付けた。2回目・9日の公演は、さらに収容人員が多い(約2000人)平壌国際映画会館となったが、口コミで評判を呼び、群衆が殺到。窓から無理やり入場しようとしてガラスが割れる騒ぎに。興奮したのは一般の観客だけではない。北朝鮮の政府・党の要人からは「入場券が手に入らないか?」と関係者に問い合わせが相次ぎ、電話が鳴りっ放しになった、という。

この時期、南北融和ムードの中で韓国人歌手の訪朝が相次いだが、ヨンジャほど爆発的な人気を呼んだ歌手は他にいない。ヨンジャの何が、北朝鮮の観衆のハートをワシ摑(づか)みにしたのか?

プロデューサーを務めた李喆雨(リ・チョルウ)(1938年~)が言う。「(ヨンジャの)圧倒的な歌唱力、そして何よりも考え抜いた選曲と演出がウケたのでしょう。他の歌手は韓国での公演と同じようにやったが、それでは(北)朝鮮ではダメだ、ということが理解されていなかったのです」

ヨンジャの公演では南・北の名曲を交互にはさみ、前年(2000年)のシドニー五輪で合同入場した南北選手団が歌った「パンガプスムニダ」や朝鮮民族の伝統民謡「アリラン」も北と南の両方の歌を入れた。日本統治時代に流行した『他郷暮らし(タヒャンサリ)』や『涙に濡れた豆満江(とまんこう)』などの懐メロも組み込んだ。終戦後、禁止された懐メロも、1980年代以降、再評価されるようになっていたのである。

ヨンジャは、一躍〝時の人〟となった。「すごい反響でした。音楽学校を訪問したとき、私が歌うと生徒たちがすぐにハモってくるんです。うれしかったですね。政治のことはよく分からないけど、歌によって『南北の懸け橋』になれればいいなって…」

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最高権力者(総書記)の金正日(ジョンイル)がヨンジャ一行と会ったのは2001年4月11日の午後のことである。

11日には本来、平壌での最後の公演が予定されていたが、前日(10日)の夜のパーティーの席で党の幹部から突然、「1週間の滞在延長」を打診される。プロデューサーの李は戸惑った。

「政治利用」を避けるために、わざわざ日程を「金日成の誕生日」に掛からないように設定したことは前回(8日付)書いた。李はヨンジャのスケジュールがこの後に入っていることを理由にやんわり断ったが、党幹部は引き下がらない。「ならば、明日、地方へ行ってくれないか」として行き先も告げられないまま夜行の特別列車にバンドごと乗せられたのである。

夜中の12時過ぎに出発した列車は夜通し走り、朝の5時ごろ、引き込み線のようなところで停車した。そのまま列車内で待機を指示され、ようやく豪華な別荘に案内されたのは午後3時ごろ。ヨンジャの前に、もじゃもじゃ頭でジャンパーのような服を身に着けた〝あの男〟がいた。

やがてそこは、北朝鮮北部・咸興(ハムン)の金正日の特別な別荘であることが分かる。別室に招かれたヨンジャや李らは金正日との接見に臨んだ。「私(金正日)が平壌に行けないので今日、咸興に来てもらったのです。昨年、南の長官(※韓国の閣僚だった朴智元(パク・チウォン)のこと)に名指しをして(キム・ヨンジャを)招いていたのに会わないのでは約束を守らないことになるからね」

上機嫌の〝将軍サマ〟にヨンジャはこう返した。「ずっと前から願っていた共和国(北朝鮮のこと)に来ることができたのは将軍サマ(金正日のこと)が私の名前を留め置かれ、長官(朴)に話してくださったおかげです。感謝します」。ヨンジャは自分の歌とクラシックCDを金正日にプレゼントした。

別荘で行われた公演。金正日は一番前にテーブルを置き、その席に座ってヨンジャの熱唱を聴く。「(金正日は)怖い人かと思っていたが、会ってみたら普通のおじさんでした」。ヨンジャは後にこう語っている。

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ヨンジャの訪朝公演の評判は日本にも伝わっていた。

4月13日付産経新聞朝刊は12日午後、新潟空港へ帰国したヨンジャ一行の様子を伝えている。《ヨンジャさんは北朝鮮の歌七曲も含め三十曲を熱唱。その際、日本では「イムジン河」で知られる「リムジン江」「釜山港へ帰れ」など三曲について、金総書記が「日本語で歌って」と言ったので、ヨンジャさんは日本語の歌詞で歌った》

01年、02年と2度行われたヨンジャの訪朝公演は北朝鮮の〝慣例〟に沿って「ノーギャラ」「交通費自己負担」。金正日から貰(もら)ったのは、高価なものとは思えない「絵1枚」だけだった。

ところが、ヨンジャが金正日から金塊をもらったらしいというデマが飛び交ったことがある。重い機材が入った大きな箱を目撃したメディアから「金塊を隠しているのではないか?」と追及され、釈明に追われたことも。

これで終われば〝笑い話〟だったが、この半年後、すべてを暗転させる衝撃的な事態がヨンジャらを襲うことになる。02年9月の小泉純一郎首相訪朝、その後の日本人拉致事件をめぐる北朝鮮側の不可解な説明に対して日本の世論が硬化したのだ。

2度の訪朝公演を行ったヨンジャは一転してバッシングの矢面に立たされてしまう。日本のレコード会社などヨンジャを支えてきた関係者も及び腰となった。03年に行う3度目の訪朝公演もすでに決まっていたが、関係者は「もし、もう一度北朝鮮へ行くつもりならば、日本での歌手生命を懸けて行ってください」。日本では仕事ができなくなる覚悟で、ということだ。そう言われればヨンジャ側も断念するしかなかった。

金正日の〝お墨付き〟を得て、商業ベースでの日朝間の公演事業に手を広げようとしていた李にとっても大打撃だった。追い打ちをかけるように、北朝鮮の芸術外交の担い手だった張も03年に亡くなってしまう。

そして、誰よりも地団太(じだんだ)を踏んだのは金正日だろう。日本人拉致を指示した自らが招いた事態とはいえ、日本との国交正常化と、その先にもくろんでいた兆円単位の経済支援も「泡」と消えた。何より、個人的な楽しみであったろう、ヨンジャの訪朝公演を「生(なま)」で聴くことが永遠にできなくなったのだから。

=敬称略(編集委員 喜多由浩)

=隔週掲載

【プロフィル】李喆雨

リ・チョルウ 作曲家、音楽プロデューサー。83歳。元朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)音楽部門幹部。1938年、大阪市出身の在日朝鮮人2世。かかわってきた日朝間の文化交流の「秘話」を明かす。


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