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【文芸時評】10月号 恋愛は欲しくない 早稲田大学教授・石原千秋

先日、ほんとうに久しぶりに新宿の伊勢丹にあるマーガレット・ハウエルでジャケットを買った。1年半ぶりだろうか。昨年の春からの授業はZoomが中心だったが、この秋から講義科目も対面で行おうと考えているからだ。その覚悟のためのようなところもある。もともと服を買うのが趣味みたいなところがあったから、こんなに長い間服を買う気が起きなかったのははじめてだ。テレワークが多い人も同じだろうが、見られる意識がなくなると服装に気を使わなくなる。流行にも疎くなる。流行がなくなれば、資本主義の申し子であるファッション業界は瞬時に崩壊するかもしれない。

早稲田大学教授・石原千秋氏
早稲田大学教授・石原千秋氏

ファッションは、近代が衣服の自由を手に入れたからみんな同じ流行の服を着ようとする逆説によって成り立っている。この逆説の上に、みんなとはちょっと違う服を着る喜びも成り立っている。伊勢丹に行く僕は、売り場もだがお客さんの着こなしをよく観察する。たとえばコムデギャルソンに来る若者には店員さんよりもコムデギャルソンしている人がいて、感心させられることがある。

川北稔の名著『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)には「イギリス人は、なぜお茶に砂糖を入れるという、とんでもないことを考えたのでしょうか」という一文がある。17世紀のイギリスではお茶も砂糖も贅沢(ぜいたく)品だったから、貴族がステイタスシンボルとして見栄(みえ)を張った結果だという。それを庶民もまねをしてアフタヌーンティーのように広がったのだ。アメリカの経済学者ソースタイン・ヴェブレンは『有閑階級の理論』(新版・ちくま学芸文庫)で見栄を張って見せびらかす消費に注目し、ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトは『恋愛と贅沢と資本主義』(講談社学術文庫)で女性の気を引くための贅沢こそが資本主義を成立させたと説いた。資本主義と「見ること」は切っても切れない関係にある。近代資本主義の成立には、見ることと見られている意識が大きな要因としてある。

いま資本主義はネット空間に移行しつつある。それこそ見ることで成り立つ世界だ。現代の資本主義が始まっているのだろうか。僕の言いたいことはこうだ。資本主義は人の心の中で成立するものだと。だから、欲しいという動機を無限大にすればいい。それは見栄か恋愛かお金という数字への執着か、資本主義はそれを探し続けるだろう。

柄谷行人「霊と反復」(群像)を読むと、柄谷は妙なことになっている気がする。資本主義における商品価値は交換様式が生み出す「霊」によっているというのだ。霊って何? これは説明の放棄ではないだろうか。少なくとも、僕は商品価値を人間の世界で説明したいと思う。僕が先に挙げた本は、資本主義を人間の心の中に探そうとした貴重な論考だと思っている。これに、資本主義を支える勤勉さはプロテスタントの倫理が生み出したのではなく、モノが欲しいという近世ヨーロッパの消費行動が生み出したのだと説くアメリカの経済学者ヤン・ド・フリース『勤勉革命』(筑摩書房)を加えてもいい。

「すばる」が特集「恋愛小説の可能性」を、エッセーと論考とで組んでいる。特集の趣意文にこうある。「恋愛が人生を豊かにする、恋愛こそ一番、恋愛できない人はかわいそう。そんな恋愛至上主義とともに、小説も今問い直しの場に立たされている」と。必死なんだなあという感想を持つ。これを書いた編集部は若者の現実ではもう恋愛の魅力が失われつつあること、それどころか恋愛に関心さえ持たない若者が増えていることに気づいているのだろう。大学で日々若者を見ていると、特に男子学生が恋愛に無関心になりつつあると感じる。「傷つくのが嫌だから」とか「人間関係がうっとうしい」とか、そういう説明のはるか遠くに行ってしまったように感じる。恋愛が欲しいものではなくなりつつある。


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