話の肖像画

    渡辺元智(3)荒れた幼少期…伯父から学んだこと

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    《終戦が迫っていた昭和19年11月、母親の実家があった神奈川県松田町で生まれた。父親は、当時「不治の病」とされていた結核の治療で療養所に通い、一家の生計は母親が支えていた。両親と暮らすまで、長い年月がかかった》


    両親から詳しく聞いたことはないのですが、おやじは鉄工所を営んでいたようで、小田原で不自由ない暮らしをしていたようです。戦前は中国大陸にわたっていたとも聞きました。結核という病気が一家の運命を変えたのかもしれません。物心がつくころ、父親は療養所のある平塚に住んでおり、おふくろはおやじの世話をしながら、生活費を稼ぐためにアルバイトをしていました。

    生まれ育った祖母の家は大きな農家でした。祖父は旧国鉄の松田駅長で、松田駅は昭和9年に熱海駅と函南駅を結ぶ丹那トンネルができるまでは東海道線の主要駅です。松田駅長は地元の名士で、そこに終戦前後、母方のきょうだいたちが疎開で身を寄せていました。


    《両親がいない寂しい幼少期。多感な少年は荒っぽい遊びに夢中になった》


    祖母や伯父はとてもやさしかったのですが、両親がいないという寂しさは拭えません。まぎらわせるように、荒っぽい遊びばかりしていました。川から灌漑(かんがい)用水を引き込む水門に行き、水門が開いて放流が始まった瞬間、友達と用水路に飛び込む。すごい勢いで流され、そのうち息が苦しくなって必死で手を伸ばして用水路内の鉄柵をつかみ、激流に逆らってやっとのことではい上がる。鉄柵を握り損ねると、どこまでも流されてしまうような水圧でしたね。

    トロッコの暴走もよくやりました。そのころは松田町を流れる酒匂川の河川敷で砂利を採っていて、松田駅まで砂利を運ぶ引き込み線があったんです。そこにあったトロッコを無断で持ち出し、友達と全力で押して猛スピードで走らせて飛び乗る。一気に河川敷まで下って、線路末尾のストッパーに激突。友達とトロッコから投げ出されるのですが、それが楽しかった。用水路での激流下りも含め、一歩間違えば命を落とすような遊びでしたね。

    実際に友達が亡くなったこともありました。小学校1、2年生のときでしたか、酒匂川の対岸の開成町で火事があって、見に行こうと十文字橋という鉄道の鉄橋をわたっていたのですが、気が付くと対面から電車が迫ってくる。当時の鉄橋には待避場所はなく、枕木にぶらさがって電車をやり過ごしたのですが、1人が川に落ちて、亡くなりました。

    養鶏場に忍び込んで卵を割って飲んだり、無断で柿の木に登って柿を食べ、見つかってひどく怒られたり…。それでも日が暮れれば、友達は親が迎えに来てくれる。私は最後の友達と別れてから、1人で家に帰るという日々でした。


    《生き抜く術(すべ)を教えてくれたのは伯父だった》


    母方の実家の跡継ぎである伯父には、よく野山や川に連れていってもらいました。恐ろしいほど博識で、アケビや野イチゴの食べ方、仕掛けでアユを捕るゴロビキ、ウグイを釣るときのエサは腐らせた魚の頭に湧くウジを使うことなどを教えてくれました。自然には状況に応じた対処法があり、これは野球に通じることだと思っています。

    伯父は酒好きで、酔って機嫌が悪くなると手が付けられなくなり、人が変わってしまう。子供なりに人間の二面性の恐ろしさを学んだ気がします。伯父は昭和48年ごろにがんで亡くなったのですが、見舞いに行ったらコンクリートの部屋に並べられたベッドで、他の末期がんの患者さんたちと寝ていた。これが世話になった伯父の最期なんだ…。やりきれなさを感じましたね。(聞き手 大野正利)

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