話の肖像画

    渡辺元智(5)甲子園という目標が生んだ「宝物」

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    《昭和35年に横浜高校に入学。同じ年に招聘(しょうへい)された笹尾晃平監督のもと、甲子園初出場を目指した苛烈な練習が始まった》


    神奈川県内の中学校や社会人チームを優勝に導いていた笹尾監督の指導は厳しいとは聞いていましたが、想像をはるかに超えたものでした。とにかくランニングと基礎練習を徹底的に繰り返す。途中で倒れると、監督だけでなく上級生からも容赦なく鉄拳が降りかかりました。上級生は厳しく、まるで殴られるために練習しているような錯覚に陥ったこともあります。

    監督はとにかく苦手で、みんなが避けていました。練習が終わって帰宅中、駅で監督を見かけると、「あの車両はやめよう」と、目につかないように後ろの車両に回りこむ。しかし監督は実にめざとくて、いつの間にか目の前に来ているんです。そして乗客がいようとお構いなしに説教が始まる。「ルールブックをしっかり読め」「中づり広告をみて漢字のひとつやふたつ覚えろ」「窓から外を見て、動いている看板に目をこらし、動体視力を鍛えろ」。乗客が少ないときは「通り過ぎる電柱をボールにみたてて、腰を切る練習をしろ」と打撃訓練が始まったりしました。当時の野球部員は教科書を教室の机に入れっぱなしでカバンは空。そこで私はカバンに石を入れ、電車内で腕の筋肉を鍛えたりしました。

    練習中は水を飲める雰囲気ではありませんでした。のどが渇いても、グラウンド近くには汚水のたまり場しかない。ボウフラが湧いているような汚水で、さすがに口にはできない。それでたまり場に注ぐ前のU字溝を流れる水をすすりました。私は幸い、赤痢に1回かかっただけですみましたが…。上級生は山に水筒を隠し、ボールを探すふりをして飲んでいたようです。


    《とにかく練習した》


    練習は厳しかったのですが、養子に行った渡辺家に学費を出してもらっていたのでやめるわけにはいきません。プロ野球選手になってなんとか恩返しをしたい、そのためにも甲子園に出場してプロ球団が注目するような選手になりたい。その一念で、練習には気合が入っていました。帰宅後には同じ平塚市内に住んでいた監督の家まで20分くらいかけてランニングし、スイングをみてもらったりしました。またスイングに力をつけるため、自宅の庭に角材を固定してタイヤをくくりつけ、それをバットでたたく。バーン、バーンと大きな音が毎晩、響き渡り、近所には迷惑をかけてしまいました。

    笹尾監督の指導は厳しかったのですが、「横浜高校の甲子園初出場」という明確な意志がある。感情に任せた指導ではなく、うまくなって一緒に甲子園に行こう、という指導でした。部員たちもそれがわかります。よく考えると、何もされないことの方が苦痛だったと思います。親も監督や教師に厳しさを求めていた時代で、殴られたことを報告する部員はいなかったですね。本当にきつかったのですが、あのときに厳しい指導を経験したことは、後に指導者になったときに生かされたと思っています。


    《厳しさが財産に》


    人生のどこで自分を鍛えるのか。一番我慢ができるのが高校生、大学生のときです。「野球を楽しめ」というのは方便であって、五輪でも一流のアスリートは限界に挑戦しています。そして一流を目指す人は、努力しても簡単には一流になれないことを知っている。だから目標を高く掲げ、他の選手以上に努力を重ねるんです。

    笹尾監督は就任4年目、私が卒業した翌年に夏の県大会で優勝し、甲子園初出場を勝ち取りました。厳しい練習を重ねていけば甲子園に行くことができることを実証したのです。甲子園という目標があれば、同じ練習でも質が異なり、その積み重ねが最後に大きな差となる。笹尾監督のもとでの経験は大きな財産となりました。(聞き手 大野正利)

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