話の肖像画

    渡辺元智(6)肩痛め失った野球、荒れた日々

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    《高校3年生の昭和37年夏、甲子園出場へ最後のチャンスとなる神奈川大会に臨んだ》


    プロ野球選手となって家族に恩返しをするという一念で、笹尾晃平監督と厳しい練習を重ねました。強豪校との練習試合で好投手たちと対戦し、プロ野球への手応えを感じたこともあります。

    甲子園で春夏連覇を達成し、ロッテのエースとなった作新学院の八木沢荘六投手からはヒットを打ったことがありました。試合は横浜商のグラウンドで行われた3校での変則ダブルヘッダー。あんな豪速球をよくはじき返せたな、と今でも思い出し、プロへの夢が広がっていきました。

    最後の夏の県大会は準決勝で敗退、甲子園出場はかないませんでした。相手の鎌倉学園はエースが大毎にいった永田善一、中心打者には西鉄と阪神で活躍した竹之内雅史がいて、春の選抜でベスト8に進出した実力校。あれだけ練習しても超えられない現実があることを、身をもって知りました。


    《大学野球部から声がかかった》


    高校を卒業するとき、経済面などもろもろの事情から野球を続けるか、就職するか、と迷っていました。すると地元の神奈川大学から「経済的な心配はしなくていい」と声がかかった。「両親や養子先に負担をかけずにすむ。もうちょっと続けてみよう」と決断したのです。鈴木三好監督も厳しい人で、再び練習づけの日々が始まりました。入学してすぐ、守備位置が外野から内野にコンバートされましたが、動きの違いもあって、レギュラーを目指して練習をするなかで、肩を痛めてしまった。診断では軟骨が右肩の神経を圧迫しており、日常生活にも影響が出るとされました。

    手術をしたのですが、最後まで痛みはとれず、とても練習ができる状態ではありませんでした。野球ができなくなったら大学に残るという選択肢はありません。退学して親戚が工場長を務めていた、千葉・姉崎のブルドーザー整備工場に世話になることになりました。


    《野球を失い、荒れた日々が始まった》


    それまで野球以外はやったことがない。だから休みの日の過ごし方がわからない。そこで無免許運転です。工場付近の道路で練習し、その後は房総半島をグルグルと暴走しましたね。ひっくり返ったこともありました。また東京・浅草まで運転して飲み、そのまま千葉まで帰ったこともあります。

    スズメ撃ちもよくやりました。整備工場なので機械に明るい仲間がいて、空気銃を改造してポンプ式にして破壊力を増強し、それでスズメを撃ちにいく。工場のまわりは田んぼばかりで、スズメはいくらでもいます。少年時代に神奈川県松田町でやっていたサバイバルのような経験が役に立ちました。撃ったスズメを熱湯に入れるとズルッと毛がむけるんです。焼き鳥にしてそれをつまみに酒を飲んでいました。今では許されない行為で、申し訳ないことをしていました。

    そうこうしているうち、右肩の痛みがなくなり、再び野球への情熱が湧いてきました。本社に熊谷組から出向していた役員がいて、工場長が話をしてくれ、社会人野球・熊谷組の練習に参加させてもらいました。そうしたら、採用の方向で検討してくれた。それで数日間、練習に参加したのですが、右肩の激痛が再発。今度こそ本当に野球選手を諦めました。

    すさんだ生活で野球を諦めていたなか、母校の横浜高校から連絡がきた。笹尾先生が一身上の都合で監督を引退するので指導にあたってくれないか、と。高校のときに非常にまじめにやっていたので、後継者として白羽の矢がたったのかもしれません。そうか、指導者という道もあるのか。青天の霹靂(へきれき)のできごとで、何も聞かずに二つ返事で受けさせていただきました。(聞き手 大野正利)

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