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【話の肖像画】渡辺元智(9)あと1勝、立ちはだかった「壁」

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《昭和44年夏。6年ぶりの甲子園出場を目指し、神奈川県横須賀市の元番長、山際稔捕手と松岡信哉外野手を中心とした異色のチームの挑戦がはじまった》

横浜高校は昭和17年に県立横浜第一中学校(現希望ケ丘高校)の黒土四郎校長が文武両道を掲げて設立した旧制横浜中学が前身の進学校でした。戦後は学校の改編などでスポーツに力を入れていたのです。それだけに野球部の甲子園出場には大きな期待が寄せられていました。中学時代に不良たちを束ねていた山際、松岡の統率力は抜群で、山際は主将になりました。気性の荒い部員が多かったのですが、けんかは強くても義理人情に厚い山際と松岡がよくまとめてくれた。2人に支えられたエースの山本秀樹は急成長して西鉄に指名され、監督として教えた部員で初のプロ野球選手となりました。

この年の夏の神奈川大会序盤は投打がかみ合う理想的な展開、3戦目は山本が県大会奪三振記録を更新して勢いがつき、準々決勝は8―2の快勝。準決勝の横浜市立南高戦は好投手、中村憲史郎君と山本の息詰まる投手戦となり、延長14回に挙げた1点を守り切りました。手塩にかけたチームが試合ごとにたくましくなっていく。あと1勝となって「このチームなら甲子園に行ける」と、心の中で手応えを感じていました。

《決勝の相手は三池工(福岡)を全国優勝に導いた原貢監督が率いる東海大相模だった》

全国制覇の実績をもつ原監督のもとには、県内のみならず九州や和歌山県から有望選手が集まっていました。しかしうちには山際、松岡、山本をはじめ、勝利に貪欲な選手ばかりで経験も積んでいる。エリート集団の東海大相模にも負けることはないと思っていました。真っ向勝負で臨んだ決勝戦で、山本が利き腕の右手指先のマメをつぶすアクシデントもあって三回に2点を先制された。「あと6回ある。逆転しよう」とハッパをかけましたが、準決勝までとは何かが違う。栄光を直前に生じたわずかな歯車の狂いに、私もチームも余裕がなくなっていたのでしょう。

原監督はそこを見抜いていたのかもしれません。打線はアンダースローの上原広投手に翻弄され続けました。山本も指先を使わずパームボールを連投して抑えましたが、そのまま0―2で準優勝。手応えを感じていただけに、目の前だった甲子園出場があっけなく崩れていく現実に呆然(ぼうぜん)としました。

慢心があったわけではありません。でも何かが足りなかった。相手ベンチの原監督の姿がやけに大きく目に映ったことを思い出します。三池工で無名選手たちを鍛え上げて全国制覇を勝ち取った実績からか、「若造、いつでも相手になってやるぞ」といわんばかりに目の前に立ちはだかったのです。東海大相模は翌年、全国制覇を成し遂げました。そのときから原監督の東海大相模は乗り越えなければならない大きな壁になりました。

《チームの激闘に感銘を受けた人もいた》

山際、松岡のチームをノンフィクション作家の軍司貞則さんが「落ちこぼれの甲子園」として本にまとめてくれ、テレビドラマ化されました。私の役は名高達郎さん、妻が市毛良枝さんで恐縮至極でしたね。山際、松岡は大東文化大に進み、首都大学リーグで同大の初優勝に貢献しました。山際は社会人野球のいすゞ自動車に入り、引退後はデトロイト支店長まで務め、松岡も飲食事業を成功させるなど立派な社会人に。「人生の勝利者たれ」という教えを、元番長たちが実現してくれました。(聞き手 大野正利)

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