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【THE古墳】箸墓の想定外の〝発見〟は家主の快諾のおかげ

箸墓古墳の墳丘(上)近くで見つかった渡り堤(手前)。両側が石垣状になっていた(奈良県桜井市教委提供)
箸墓古墳の墳丘(上)近くで見つかった渡り堤(手前)。両側が石垣状になっていた(奈良県桜井市教委提供)

皇室の先祖の墓として宮内庁が管理する箸墓古墳は周囲が柵で囲まれ、他の天皇陵などと同様に立ち入りも発掘もできない。ただ、柵の外にも古墳は広がっていて、墳丘の一部や周濠(しゅうごう)は今も民家や田畑の地下に眠っている。この部分を発掘できる数少ないチャンスが、古墳に隣接する家の建て替えなど掘削を伴う工事だ。着工前に行われる発掘を主に担当するのが、地元の奈良県桜井市教育委員会。民家の場合は面積も小さくなるが、丹念な調査によって研究者が予想もしなかった発見につながった。

「掘っても何も見つからん」


平成10年、箸墓古墳の後円部南東側で、住宅の建て替え工事が計画された。当初の調査面積はわずか40平方メートルで、2DKほどの広さしかない。現場を任されたのが、橋本輝彦・文化財課長(52)。当時は市教委に入って4年の若手だった。

箸墓古墳周辺では過去に別の場所で発掘が行われたが、古墳関連の遺構は見つからなかった。理由は、近くに流れる巻向(まきむく)川。古代以来たびたび洪水による氾濫があり、遺構があったとしても土砂と一緒に押し流されたからだった。

先輩の調査員はそのことをよく知っていた。

「掘っても何も出んやろう」。橋本さんにそう言葉をかけた。

発掘現場は、宮内庁の管理区域から10メートルほど離れ、もともと墳丘の外側とみられていた。しかし、墳丘には幅10メートルほどの周濠がめぐっている可能性があり、橋本さんは「周濠の一部でも引っかかってくれれば」と期待をかけた。

地表から50センチほど掘り下げると、砂や小石ばかりの層に突き当たった。洪水の跡だった。

「やっぱり洪水でやられてるやろ。早々に切り上げたらどうや」。先輩や上司から現場の撤収を促された。

姿を見せた「渡り堤」の石垣

「箸墓が目の前にあるのに、ここで諦めるわけにはいかん。砂の下に周濠の痕跡が残っているかもしれない」。調査を続行した。

「上司に『やめろ、やめろ』と言われたので、かえってしつこく掘りましたよ」と橋本さん。小型重機を使って砂の層をさらに掘り進めた。

「なんか石が並んどるぞ」

重機を操縦していた男性が叫んだ。注意深く観察すると、ひと抱えもありそうな石が墳丘の外側に向かって一列に並んでいるように見えた。

石がどこまで続くか把握するため、調査範囲を広げると、高さ1メートルほど積まれた石垣が2列、平行するように約9メートルにわたって延びていた。近くでは周濠の痕跡も見つかった。2列の石は、墳丘から周濠をまたぐように設けられた「渡り堤(つづみ)」と呼ばれる土の橋の石垣だった(❷)。

渡り堤は、箸墓古墳の数キロ北にある巨大前方後円墳の景行天皇陵(同県天理市、墳丘長約300メートル)や崇神天皇陵(同、約240メートル)にもあり、箸墓古墳に存在したことが初めて分かった。

3つの古墳はいずれも、後円部が前方部より高い位置に築かれている。渡り堤は、後円部側にたまった周濠の水が前方部側に流れていかないよう、途中でせき止める役割があった。

橋本さんは「渡り堤の両側面を石垣のようにすることで、周濠に水をたたえた古墳がより荘厳に見えるようにしたのだろう」と推測する。

渡り堤の発見は、住宅の所有者の理解が何より大きかったという。「そんな大事なもんが見つかったんやったら、もうちょっと掘ってくれていいよ」と、調査の拡張を快諾。面積は、当初の4倍以上の170平方メートルに及んだ。渡り堤も住宅建設で壊れないように考慮され、地下にそのまま保存されることになった。

巨大古墳も洪水被害

渡り堤の発掘から2年後の平成12年。橋本さんに再び箸墓古墳の発掘の機会がめぐってきた。

前方部南側での開発工事に伴い、東西約6メートル、南北約30メートルの細長い区域を調査した(❸)。その結果、前方部本体の一部が確認され、墳丘は宮内庁が管理する外側まで広がっていたことが分かった。さらに周濠の一部も検出。平成7年の県立橿原考古学研究所の前方部北側の調査では墳丘の葺石=ふきいし=(❶)や周濠が見つかっており、古墳全体に周濠がめぐっている可能性が高まった。

ただし、墳丘斜面にあったはずの葺石はなく、洪水の痕跡を示す土砂が大量に堆積していた。巻向川の氾濫で、葺石はほぼ押し流され、墳丘本体も洪水で一部が削られていた。

橋本さんは「平成10年の渡り堤はまさかという発見だったが、12年の調査は『必ず墳丘に当たる』と予想して、その通りに見つかった。ただ、洪水でこれほど失われていたのは予想外だった」と振り返る。

悪い地盤にあえて築造

これまでの発掘や測量などによって、箸墓古墳一帯の地形は後円部のある東側がやや高いものの、ほぼ平坦(へいたん)だったことが判明。全長約280メートル、高さ約30メートルもある墳丘は、山や丘陵を利用したのではなく、ほぼすべてが人工の盛り土で築かれたとみられている。古墳周辺の発掘では、大量の土を採取した掘り込みも確認された。

ただし、橋本さんによると、箸墓古墳一帯は低湿地で土は柔らかく地盤が弱いという。「発掘していても、泥と砂ばかりといっていいぐらい。こんな質の悪い土を積み上げて、しかも1800年たっても崩れていない。よほど高度な土木技術と丁寧な仕事だったのだろう」と舌を巻く。

当時の築造技術を知るには墳丘の発掘が必要だが、宮内庁の管理で立ち入れないため現実的には難しい。

「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳。その巨大さは、古代人にとどまらず、現代人から見ても神業といえる大事業だった。(小畑三秋)


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