■第2位 前田利家(1539~99)
利家は若い頃、仕えていた織田家を出奔し、経済的に厳しい牢人(浪人)生活を送っていた。それゆえ、貧乏のつらさは骨の髄まで染み込んでいたという。
慶長元年(1596)の慶長の大地震後、前田家の京都屋敷が倒壊したので、利家は子の利政に新しい屋敷を建てさせた。しかし、それがあまりに豪華だったので、「金の使い過ぎだ」と怒ったというエピソードが残っている。
また、利家が愛用していたという算盤が残っているが、利家は家のお金の管理をすべて自分で行い、愛用の算盤で勘定していたといわれている。まるで、中小企業の社長のような印象が残る。
天正12年(1584)に利家が佐々成政と戦った際、妻の「まつ」は備蓄していた金・銀を軍費に充てるよう、利家に進言したという逸話が残っている。
利家はドケチだったので、軍費を惜しんだだけでなく、人を召し抱えることを控えるなどしていた。それゆえ前田家には、十二分な金・銀が蓄えられていたのだ。
「まつ」は利家が蓄財に励むのを皮肉ったうえで、利家に戦費として金・銀を使うよう助言したのである。その甲斐あって、利家は成政に勝利した。
利家は「どケチ」といわれる一方で、多くの大名に金を貸していた。しかし、自分の死に際しては、「彼らも困っているだろうから、借金の催促はしないように」と子の利長に遺言する優しい面もあったという。
前田家もまた幕末維新期まで家が存続し、「加賀百万石」の大名として君臨した。その秘訣は、藩祖・利家の倹約にあったのかもしれない。
■第1位 佐久間信盛(?~1582)
天正8年(1580)、織田信長は大坂本願寺攻めに失敗した信盛に折檻状を送り、高野山(和歌山県高野町)へ追放するという処分を科した。信盛は織田家の重臣だったが、その責任を取らされたのだ。
その理由で重要なのは、「以前から使える家臣に知行を加増したり、あるいは与力を付けたり、新しく家臣を召し抱えたりしていれば、これほどの落ち度(大坂本願寺攻めの失敗)をすることはなかっただろう。(信盛が)ケチくさく、(お金を)溜め込むことばかり考えるから、今回は天下の面目を失ってしまったのだ」という一節だろう。
むろん、これには根拠があった。家臣は主のために懸命に戦い(奉公)、主は貢献した家臣のために加増する(御恩)。「御恩と奉公」の関係こそが、主従関係の基本である。
ところが、信盛は自分が金を溜めることばかり考え、おまけに大坂本願寺攻めに失敗したので、信長は怒り狂ったのである。
信盛が1位なのは、ほかのどケチ大名のなかで、もっともケチぶりが徹底していたことになろうか。それが咎められて没落したのだから、まったく良いところがない。
■まとめ
戦国大名のケチぶりを伝えるエピソードは実に多いが、なかには怪しげなものがあるのも事実である。少なからず創作があるのだ。
一方、戦国大名がケチだったというのにも理由がある。それは単なるどケチなのではなく、災害時に人々にお金を与えたり、戦費に充てるためだった。
つまり、ケチは単なる戦国大名の性格というよりも、いざというときのための蓄えだったのである。ゆに、災害時や戦時には、惜しみなくお金を使ったのだ。
一方で、ケチの逸話の多くが近世に成立したのは、江戸時代にたびたび発布された倹約令の影響もあろう。名君=倹約という図式が成立し、それを過去の大名の姿に求めたのだ。
「倹約する戦国大名がずばらしい!」というのは、江戸時代に作られた理想像と考えられるが、非常におもしろい現象でもある。
【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら