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「ペリーが来る」最重要情報を生かせなかった幕府の失敗 ペリー来航予告と幕閣・阿部正弘(1)

今日まで人間も社会も、誤算と失策を繰り返して来た。

人は同じ失敗を二度と繰り返さないように気を付けることが多い。以前、台所の流しの上の戸棚からものを出したまではよかったが、戸を閉め忘れ、角で頭をしこたまぶつけた。それ以来、必ず戸を閉めたことを指さし確認している。つまり、二度と失敗しないのは、痛い目にあったからである。「私、失敗しないので」と言えるのは、過去に大きな失敗をしたから言えることなのではないだろうか。

親の失敗を見て、子供は育つことがある。それは「家訓」として継承されることもある。そうして何世代にわたって失敗が継承されることが「家」の発展につながることもあろう。商家や武家はそうであろう。

社会はどうだろうか。160年前と言えば、1世代30年として5世代以上である。なかなか伝わらないことも多いのではないだろうか。忘れ去られてしまったこともある。

本コーナーでは、ペリー来航前あたりから戊辰戦争くらいの「幕末」をめどに誤算と失策を繰り返した幕府や藩、個人など失敗を中心に「失敗の幕末史」をつづってみたいと思う。

もちろん成功体験も大事だが、失敗も大切だ。失敗の中から学んでみたいのだ。もちろんこのコーナーが失敗に終わらないようにしたいと思う。

その際、失敗に至るまでには誤算と失策があったことに注目したい。そこには情報の入手の仕方、分析のやり方、使い方に誤算があり、その結果の失策、それをリカバーしようとして、また誤算と失策を繰り返したのではないか。日本人同士が戦争にまで至ってしまった幕末を誤算と失策から見ておきたい。

あたかも、コロナによって分断された現代の人間は、黒船によって思想的に分断された幕末の人々のようでもある。

さて、第一回は、「ペリー来航予告情報」と幕府老中首座(しゅざ)阿部正弘をめぐり、誤算と失策を論じたい。阿部は失敗したのか、成功ではなかったのか。歴史の裁判に即断は禁物だ。まずは、経過をたどり冷静に考えてみよう。

予告されていたペリー来航

ペリー来航に先立つこと1年前、嘉永5年(1852年)6月、長崎のオランダ商館長、ヤン・ヘンドリック・ドンケル=クルチウスから、「ペリー来航予告情報」第一弾、オランダ別段風説書(べつだんふうせつがき、主に天保期、アヘン戦争情報がもたらされて提供されるようになった定期的な海外情報、主としてシンガポールの英字新聞などが情報源、原文はオランダ語)が長崎奉行に提出された。そこには、ペリーが蒸気軍艦を率いて江戸湾に来航すること、上陸して城攻めを行う道具を積載していることまで記されていた。ドンケル=クルチウスは、たくさんある海外情報の最後の方にペリー関係情報を集約して、わざわざ鉛筆で〇をつけたというから、恐れ入る。

長崎奉行は奉行所内に翻訳場所を隔離して、翻訳するオランダ通詞(つうじ、日本人・長崎町人)に厳重なかん口令を発した。通常とは異なる対応に、薩摩藩の長崎聞役(ききやく、情報収集担当者)は戸惑いを隠せない手紙を上司に送っている。

さらにドンケル=クルチウスは、もっと詳しい情報が収録されている、オランダ東インド政庁のトップ、バタフィア総督の長崎奉行宛公文書を持参していることを申し出た。長崎奉行は困惑した。異国の役人から書簡を受け取ることは禁じられていたからである。それもオランダには厳格に通告してあったからだ。


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