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1億円貯めた年収400万円台“並のサラリーマン” 配当月10万円「FIRE」生活達成までの道のり

新年おめでとうございます。皆さん、こんにちは。桶井 道(おけいどん)です。

先月からSankeiBizでコラム連載を持たせていただくことになり、今回は3回目のコラムになります。本来は、初回に自己紹介をするものですが、少しでも早くお届けしたいことがあり、そちらを優先しました。3回目の今日、「自己紹介と半生振り返り」をさせて下さい。

2020年秋、47歳で資産約1億円とともに「FIRE」(=経済的自立と早期退職)実現した(Getty Images)※画像はイメージです
2020年秋、47歳で資産約1億円とともに「FIRE」(=経済的自立と早期退職)実現した(Getty Images)※画像はイメージです

マイボトル持参は17歳から続く習慣

私は、桶井道(おけいどん)と申します。「涌井(わくい)」と間違われることがありますが、「桶井(おけい)」です。2020年秋に47歳で、資産約1億円とともに「FIRE」(=経済的自立と早期退職)しました。現在は、FIRE2年生で、投資家、執筆家、節約家などマルチな肩書を持っています。投資歴は23年です。日米を主に世界17カ国と地域の増配株と高配当株をメインに投資しています。数年前に母の介護を経験し、現在は難病の父を介助しています。

生まれも、育ちも、近畿2府4県の某市で、ずっとそこで暮らし、今に至ります。小中高と地元の公立学校に通いました。小学3年生くらいに身体が弱くなり、高校生に至るまで年間欠席日数が20~40日と、当時の学校は週休1日制だったのに、私だけ時代の先をゆくような週休2日制状態でした。のちに、私が就職と同時に資産形成を始めて、FIRE(経済的自立)を目指したのは、かつて身体が弱かった自覚があり、将来、もし働けなくなっても生きていけるようにという考えもあったからでした。

中学~高校生時代、両親が電話で株取引する姿を見て育ちました。ゆえに、大人になれば、誰もが株式投資するものだと思い込んでいました。高校2年生のとき、バブル崩壊。ちょうど引っ越しをする時期と重なり、新しい家をバブル最高値で購入し、元の家はバブル崩壊で売れなくなりました。株価も暴落して金融資産にも直撃。このときに両親が抱えた住宅ローンは最高で1億2000万円。お金の怖さを子供ながらに感じました。両親がローンを完済したのは、それから20年後、私が37歳のときです。

大学は関西の某私立大学に進学。私には週休2日制が合っていたようで、体調が好転して欠席しなくなりました。4年間欠かさなかったことがひとつあり、毎日、缶ジュースを飲む友人を横目に、私はマイボトルを持参していました。今となっては私の節約の象徴的なアイテムであるマイボトルですが、17歳のときからの習慣です。当時は節約意識もありましたが健康志向も強かったです。

休日は月に1~2日…激務の社会人生活

卒業後は東証1部上場のグループ企業に就職しました。それなりに名前は通ります。しかし、給与は平均くらいで、サラリーマン人生を通して年収400~460万円くらいでした。

就職と同時に、給与の先取り貯金を始め、給与・賞与から半分以上を貯金しました。変わらず、マイボトルは持参していました。並の給料ですから資産形成のためには節約は必須です。

投資デビューは種銭が貯まった25歳です。両親が、株式投資をしていたこと、かつ住宅ローンで苦労したことを見てきた影響から、社会人になれば資産形成することは当たり前の流れでした。

労働も頑張りました。休みが月に1~2日という激務が4年間ほど続きました。20代半ばでは、従業員数千人の中で営業成績がトップ、社長表彰を受けました。ところが給与には反映されませんでした。このような環境でしたが、若い頃は、この会社で定年まで勤め上げることが普通だと思い込んでいました。

20代後半での出来事。会社が過去最高益を出したときは決算賞与を期待しましたが、利益は株主配当に充てられました。社員がもらったのは、自己啓発を促す社内通信教育の案内でした。

このとき、悟りました。個人で成績を残そうが、組織で成績を残そうが、従業員は報われないんだ、と。労働+節約+貯蓄+投資の歯車を回し続けていましたが、給与が増えることはほぼなかったです。

43歳で時短社員「サイドFIRE」実現

30代になると、再び体調に異変を感じました。消化器系に持病が見つかったのです。仕事には支障がない程度でしたので、変わらず激務の毎日を送りました。ところが、30代後半になると一晩寝ても回復しなくなりました。39歳のとき、勤務先は役職定年制を導入し、55歳をもって給与が2割カットというものでした。私はこのとき、FIREを意識しました。

40代になると、勤務先は、少数精鋭化、マルチタスク化、効率化、成果主義の徹底を進めました。私の仕事の仕方は丁寧に積み上げて成果を残すというものでしたが、それでは評価されなくなりました。

この頃、持病も悪化しました。こうして、私と勤務先との間には距離が広まっていったのです。それから、FIREの準備を加速しました。投資は高配当株にシフトして(給与に代わる収入とするため)、42歳で外国株投資信託に進出しました。

43歳で、時短社員の道を選び「サイドFIRE」しました。当初は、自分の時間もできて、体調も回復しました。ところが、その期間は意外に短く、やがて人手が足りなくなる午後出勤を多く割り当てられるようになり、残業も発生し、深夜の午後11時近くに帰宅ということもありました。

結局、時短社員になっても体調をコントロールすることが難しくなりました。ただ、勤務先を批判しても事態が好転することはなく、何の解決にもなりませんので、FIRE実現に向けた準備を重ねました。将来の自分を作るのは、自分の行動の積み重ねでしかないのです。


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