日本との貿易、独占画策した商人国家オランダの誤算 ペリー来航予告と幕閣・阿部正弘(2)

    嘉永5年(1852)6月、最初のペリー来航予告情報である別段風説書(べつだんふうせつがき)が、長崎オランダ商館長からもたらされた。実際にペリーが来航する、ちょうど1年前のことである。蒸気軍船が通商のために江戸湾にやってくる、城攻めの軍隊や道具まで積んでいるという、翌年6月に浦賀で起こることがまさに書いてあった。

    そして8月には、バタフィア(現、ジャカルタ)のオランダ総督公文書が長崎奉行に提出された。本来受け取り不可の文書だったが、返事をしない、単なる覚書(ノート)として受け取った。そこには、アメリカのペリーに対しても十分対応可能な「方便」があると記されていた。

    さらに世界の大勢から日本が孤立することは無意味で、西洋列強を敵に回したら戦争になるかもなどと書かれていれば、老中首座(しゅざ)阿部正弘は、その「方便」が書かれた文書をもはや、見ないわけにはいかなかった。見ないで、後で悔やみたくなかったのかもしれない。ここまでが前回のおさらい。

    日本との貿易、独占画策した商人国家オランダの誤算(Getty Images)※画像はイメージです
    日本との貿易、独占画策した商人国家オランダの誤算(Getty Images)※画像はイメージです

    さて、9月に提出された、「方便」文書は、驚くなかれ。なんと「日蘭通商条約草案」だったのだ。オランダは、ペリーよりも前に日本と通商条約を締結すること、つまり外交的な抜け駆けを画策していたのである。

    生き馬の目を抜くとはこのことだ。この時期のオランダは、イギリスと互角だった17世紀の英蘭戦争期はとっくに過ぎていた。19世紀前半のナポレオン戦争の後遺症(国土荒廃)もあって、国力の回復を目指していた。海外貿易の促進、つまり海外の富をオランダ国内に持ってくることを強力に推進していたのだ。

    かつ、小国オランダは積極的な外交政策を展開することで、ヨーロッパにおいて存在感を示すことを画策していたのだ。ともかく、あからさまに言えば、長崎貿易を独占することはオランダの国益保持上、最重要課題だったのである。

    日本の産品はヨーロッパではよく売れた。例えば、japanである。Japan(日本国)ではなくjapan(漆器)なのだ。ヨーロッパの王宮には今でも日本の漆工芸の調度品(japan)が置かれていている。もちろん伊万里もだ(こちらはchina・陶磁器)。オランダ商館にとって、こうした品物は利ザヤの多い、優良商品だった。独占貿易は実においしいのだ。

    また、商館長以下商館員も商館の公式貿易に支障がない限り、自分手荷物による私貿易は認められていた。日本人の趣向に合うヨーロッパの商品を手荷物に入れて持参し、日本で売りさばく。またヨーロッパで売れそうな日本の商品を手荷物で持ち帰る。そうした事情は長崎奉行にもよく知られていた。

    それゆえ、長崎奉行などにとっては、オランダ商館長は貪欲な人間だと、とらえられても何の不思議もなく、むしろその通りだったと言うこともできる。

    では「日蘭通商条約草案」の中身はどうだったか。基本的には、長崎一港に貿易を限るとか、長崎に外交団を常駐させるとか、外国人居留地建設は日本側の負担だとか従来の長崎貿易を成文化したものであった。しかし、領事裁判権を規定し、外国交際はオランダが仲介すると、さも親切そうな条文を滑り込ませてあった。さすが、割り勘(ダッチ・カウント)の国柄である。転んでもただでは起きぬ、と言ったわけではないだろうが、まさに商人国家の面目躍如である。


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