人類は「今更ながら」の集積で賢明になっているのだろうか。印刷術の発達により書物が増えた。20世紀末以降、デジタルデータが急激に蓄積された。そのなかで「今更ながら」はどれほどの地位を占めているだろう。
みなさんも経験されるように、「今更ながらに分かる」ことは、言葉にすると極めて凡庸なことが多い。あまりに言い古されている表現なのだ。
例えば、「人は愛によって生きている」は実感するものでしかない。経験なしに字面を追っても「ふ~ん」で終わる。周囲の人の愛情を受けるだけでなく、自分が周囲の人に愛情を与え、それもある程度の長い年月を経て「そういうことか・・・」としみじみと思うものだ。
したがって、「今更ながら」には具体的な状況説明、その場の関係者の心理描写、それらが記述されないと理解されにくい。刺激的なキャッチフレーズとは縁遠い。
上質な文学の世界にあるようなものだ。いや、それだけではない。普通に生きる人の普通の生活を描いた民話もそうだろう。
こう書いてきてふと気づく。デジタル上の数多のブログはどう考えればいいのだろう。後世になっての民話の素材なのか?
我が身も振り返りながら、ぼく自身がこれから何を書くべきかについて考えている。