忍城を攻め損ねた石田三成
石田三成は豊臣秀吉の腹心と知られているが、すこぶる評判が悪い。天正18年(1590)の忍城攻めでは、自ら指揮をとりながらも水攻めに失敗した。
実際は、秀吉が忍城の水攻めを命令したので、決して三成が悪いわけではない。ところが、映画化されておもしろおかしく描かれたので、その失態ぶりが広まった。
三成は朝鮮出兵の際、出陣した諸大名の讒言を秀吉にして不興を買った。このことは、加藤清正らの反感を買い、関ヶ原合戦の遠因となった。
豊臣秀次や千利休が秀吉に切腹を命じられた際は、その背後で暗躍したともいわれている。実際には事実無根と思われるが、三成の評価はよろしくない。
豊臣政権における三成はほかの奉行衆とともに検地を行い、蔵入地を管理するなど、吏僚として活躍した。朝鮮出兵では、兵站(食料や武器の調達)などを担当して貢献した。決して、三成の評価は悪くないのだ。
三成はボロカスに評価されるが、それは関ヶ原合戦で敗れたこともあり、後世の史料に悪しざまに書かれたからだ。実は、有能な人物として評価されるべきだろう。
男色を非難され激怒した大内義隆
義隆は名門大内氏の事実上最後の当主で、「小京都」と称される山口(山口市)を繁栄させたことで知られている。山口には、公家や僧侶などの多くの文化人が訪れた。
天文19年(1550)、宣教師フランシスコ・ザビエルが山口を訪れた事もまた、重要なことだった。
2人は会談に臨んだが、ザビエルは日本における男色の習慣を非難した。戦国時代において、男色は珍しいことではなかった。
しかし、義隆は激怒しただけでなく、男色を罪とするキリスト教の教えを受け入れず、ザビエルは布教の許可を得られなかったという。
義隆もまた、公家文化に溺れた「ダメ大名」と評されており、男色もその一つだろう。しかし、義隆が大内氏の黄金時代を築いたのは事実である。
汁掛飯の逸話で有名な北条氏政
北条氏政は関八州を支配した大名であるが、天正18年(1590)における小田原合戦で豊臣秀吉との戦いで敗北を喫し、自害を命じられた。
秀吉が宣戦布告をした際、氏政は家臣を集めて小田原評定を催したが、何も決まらなかった。小田原評定は誰も責任を持って決断せず、いつまでも結論が出ない話し合いや会議の例えとして用いられる。
また食事の際、氏政は2度も飯に汁を掛けたので、父の氏康が「毎日の食事をしているのに、飯に掛ける汁の分量すら量れないとは、北条家もおしまいだ」と嘆いたという。つまり、無能であると言いたいのである。
もちろん、小田原評定も汁掛け飯の話は後世の創作にすぎないが、氏政を無能なダメ人間として評価している。こうした逸話や評価が後世に伝わった。
しかし、永禄3年(1560)に領内で疫病や飢饉が流行したとき、氏政は徳政(借金の棒引き)を実行して、民のために善政を行った。
同じ年には精銭と悪銭の混合比率を7対3に規定するという、貨幣法を改正した。加えて、父祖以来の領土を拡大したので、特筆に値するだろう。
最終的に氏政は秀吉に敗北を喫したので、評価が著しく低くなった。みっともないエピソードも後世に創作された。しかし、最後の敗北を除けば、氏政は高く評価されてしかるべき戦国大名だったのではないか。
茶器とともに散った松永久秀
天正5年(1577)、松永久秀は織田信長に戦いを挑んだ。茶に傾倒していた信長は久秀に対し、名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば助命すると伝えた。
ところが、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と回答した。これで両者は決裂した。
それを聞いた信長は、人質であった久秀の孫2人を京都六条河原で処刑した。やがて、織田軍の総攻撃が始まると、久秀の敗勢は明らかだった。
久秀は天守で「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、同年10月10日に信貴山城で爆死したのである。なお、一説によると、茶釜に爆薬を仕込んで自爆したともいう。
とはいえ、信長に反旗を翻したのは、久秀の判断ミスとは言えないだろう。当時、反信長の勢力は各地に存在した。久秀も「勝てる」という合理的な判断のもと、反信長の勢力に与したと考えられる。
【まとめ】
ここまで見たように、彼ら7人の武将は後世の史料によって、汚名を着せられたといわざるを得ない。正しい認識により、評価を改めてほしいと切に願う次第である。