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あまりにヘマが目立ち過ぎて、著しく評価が低すぎる大名7人

皆さんが思い浮かべる戦国武将といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人、あるいは上杉謙信、武田信玄といった名将に違いない。一方で、戦国武将のなかには、あまりに悪い評価が付きまとっている者も少なくない。

※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)
※画像はイメージです(SankeiBiz編集部 mitsuhiro masuda)

評価の低い大名は、おおむね後世に成った二次史料(軍記物語など)によって、必要以上に貶められている例がある。今回は7人の戦国武将を取り上げて、汚名を晴らすことにしよう。

「梟雄」と称された宇喜多直家

宇喜多直家は一代で備前・美作などに領土を拡大したが、その人間性をめぐっては不当に低く評価されている。その理由は、直家が何度も裏切りと暗殺を行ったことにある。

直家は祖父・能家の復讐を果たすべく島村盛実を騙し討ちにし、舅の中山信正も殺害した。ライバルの三村家親は、遠藤兄弟に命じて射殺させた。このように、直家は手段を選ばず、謀略の限りを尽くさなかったという。

直家は毛利氏と友好関係を結び、織田信長に対抗した。ところが、毛利氏が劣勢になると、躊躇なく織田方に寝返った。直家は勝つためなら手段を選ばなかったので、後世になって手厳しく批判されたのである。

しかし、当時の戦国大名は実に打算的で、それは直家だけに限らなかった。諸大名と同盟を結んでいても、平気で破ることなど珍しくなかった。

江戸時代の儒教的な価値観からすれば、直家の行為は断罪されても仕方がない。ただし、直家の行った謀略は史料的な根拠が薄く、誇張が過ぎるのではないか。実際のところ、直家が謀略の限りを尽くさなければ、備前、美作など支配できなかったに違いない。

公家化した軟弱大名と称された今川義元

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に敗れて戦死した。義元の敗因は「文芸に溺れ、公家化したからだ」といわれている。たしかに、義元は文芸に傾倒しており、武将に似つかわしくなく、公家のように鉄漿(お歯黒)をしていた。

しかし、義元を評価すべき面もたくさんある。駿河、遠江、三河で検地を実施し、財政基盤の強化に努めた。寄親・寄子制度を創設し、軍役を整備した点も非常に重要である。ともに領国支配の要となる政策である。

また、天文22年(1553)には、「今川仮名目録追加」を制定しており、これは戦国武家家法の先駆を成すものとして高く評価されている。

戦国大名が和歌や連歌を嗜むことは、ごく普通のことだった。連歌を家臣と詠むことは、家臣との結束を高めるうえで効果があったと指摘されている。

義元はたった一度の敗戦で戦死したので、「公家化した軟弱大名」と評価があまりにも低いが、もっと見直されてよい大名である。

土壇場で東軍に寝返った小早川秀秋

秀秋は幼い頃に秀吉の養子となり、群を抜く出世をした。丹波国亀山(京都府亀岡市)に10万石を与えられ、与えられた右衛門督という官職から「金吾」と称された。

慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、秀秋は石田三成ら西軍に属した。しかし、心中では西軍を裏切り、東軍の徳川家康に味方すべきか迷っていた。

合戦前、秀秋は家康の求めに応じて東軍に属したが、合戦当日には東西両軍いずれに味方すべきか迷っていた。すると、家康は秀秋の態度に怒り、陣を置いた松尾山に鉄砲を放った。

驚いた秀秋は、すぐに西軍の陣営に攻め込み、東軍の勝利のきっかけを作った。しかし、この話は創作であることが指摘され、合戦の前日に秀秋は家康と和睦し、合戦当日は東軍の一員として西軍に攻め込んだことが指摘されている。

秀秋は大谷吉継の亡霊に悩まされ狂死したといわれているが、それも間違いで、実際は酒の飲み過ぎだった。秀秋には、実に誤解が多いのである。


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