「冬来りなば春遠からじ」という言葉がある。辛い冬であろうが、その後には明るい春がやってくるから、今の辛さを我慢もできる。このように解釈するのは、季節という有無を言わせない絶対的な自然の摂理への信頼があるからだ。
世界各地、四季のそれぞれが明確に色分けできる性格をもっているところ、それぞれの境界がやや曖昧なところ等、違った個性をもって季節は表現される。
生活している人たちは、その個性に不満や不都合を感じることもあるが、そのまま受け入れる。季節の特性を能動的に変えることはできず、どうしても嫌なら住む場所を移すしかない。
イタリアの春は、ある日突然、勢いよくやってくる。わずか1週間くらいのうちに、冬が春になるかのように、一斉に樹々の緑が目立つ。
ぼくがおよそ30年前に感じた、日本の春の到来との違いだった。しかし、イタリアに長く住むうちに、2月にも春の兆しをどことなく感じるようになる
ある日、光が一段と明るくなったと感じ、あるいは近所の公園にある草木の小さな変化を目にすると、あと1月もすれば明るい季節の日々がスタートすると身体が感じるようになる。
最初は唐突に到来すると思っていたイタリアの春が、日々、グラデーションをもって到来すると分かってきたのである。
日々の変哲のないと見られる風景も、実は微妙に変わり続けている。そうと気づくと、人は変化に希望を抱きやすくなる(もちろん、逆に不安を抱きやすくなることもある)。
だからこそ、ぼくたちは小さな変化に敏感になっておくのが良い。ものごとをかなり輪郭もって捉えられるようになるはずだ。
ただ、それによって神経過敏になるのは避けたい。そこで頼りにしたいのが、前述した季節そのものへの考え方だ。
自然の恩恵を十分に信頼して享受するとの態度である。ことは季節に限らない。太陽ののぼらない日はなく、それが沈まない日もない。これには人類が文句をつけられることではない。
そうした前提で人々は生きている。
子どもは、幼い時にさほどの季節感をもたない。暑い日が続き、寒い日が続くとは思っても、これらの日々をひとつのサイクルのなかで認知はできない。
年齢がすすむうちに各季節の特徴や兆しを知るようになり、1年という時間の長さを身体で覚えるようになる
認知症の患者たちが季節感を失うのは、子どものケースと逆に進むからだ。1年を構成する365日の存在が分からなくなり、それらを大まかに4つに分ける術を失っていくのだろう。
春の到来を喜び、これからの季節に合わせて活動することを考えるだけで心が軽くなるのは悪いことではない。生きている実感そのものだ。
世の雑事がどうであれ、春の到来を身体の底から喜びたい。