目につくのが、司会者のクリス・ロックの発言に対する評価に関する温度差です。クリスの「ジョーク」について、誉められたものではないという点では日米共通していますが、日本ではこのクリスの発言を「言葉の暴力だ」と捉える向きが多いのに対して、米国では「あまり感心しないね」という程度の受け止め方です。私は、ここにはハリウッド女優であるジェイダの立ち位置に対する認識の差もあるように感じます。
米国と日本、そのギャップの原因は?
米国では、「ジェイダは強者の側だ」という認識があるようです。ハリウッドで成功し、社会的地位を確立した人だと。そういった人は、ちょっとやそっとの揶揄(やゆ)なんぞ、笑ってかわす度量がなければならない。それにどうしても許せないとなれば、自分自身でその状況を打開するだけの立場と力があるでしょうに。そんな考え方が背景にあるように思います。
一方、日本はジェイダのことを「強者」とは認識していないように思います。「強者とか弱者とか関係なく、見た目に対する批判はダメだろう」との考えに立ってウィル・スミスを擁護する人もいますが、そうした意見の方々も案外無自覚に当事者の立場の強弱というものを意識していたりするものです。
実際、日本でも男性の「ハゲ」に対しては、驚くほど気軽に揶揄ったりします。発言が問題になるかどうかは「相手の受け止め方次第」と言う人もいますが、それって、言われた側の心の内を完璧に読み取る念力でも持っているというのでしょうか。ものすごく傷つきながら笑って対応している男性だっています。
「この人は傷ついていて、この人は傷ついてない」。そんなふうに、すべてのケースを完璧に分けられる人なんて、いやしないでしょう。
また、「ジェイダは病気なのにそれを揶揄するのは酷い」という論調について言えば、病気の認定は時代によって変わってきます。そして、男性の脱毛症も最近では病院で治療の対象となっている、つまり病気として認定されつつあるということも知っておくべきです。
要するに、日本人は無意識に「男性」という性別を「強者」だと認識しているのではないでしょうか。そして「女性」という性別を「弱者」だと認識しているのではないでしょうか。
ジェイダは女性という弱者である。そんな弱者を揶揄った司会者の発言は言葉の暴力に値するし、そうした言葉の暴力から弱者である妻を守った夫ウィル・スミスは偉い! これが日本の認識なのではないでしょうか。