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「鬼滅の刃」はバナナ型の神話である…神話学者が「鬼滅はインドネシア神話の現代版」と分析する理由

PRESIDENT Online

『鬼滅の刃』はなぜ大ヒット作となったのか。神話学者の沖田瑞穂さんは「作品を貫く愛と死というテーマは、インドネシア神話に通じる。古い神話的価値観を現代によみがえらせたことが、多くの人の心をとらえたのだろう」という――。

吾峠呼世晴さんの人気漫画『鬼滅の刃』(集英社)=2020年12月5日 - 写真=時事通信フォト
吾峠呼世晴さんの人気漫画『鬼滅の刃』(集英社)=2020年12月5日 - 写真=時事通信フォト

※本稿は、沖田瑞穂『すごい神話 現代人のための神話学53講』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

『鬼滅の刃』のテーマは神話から読み解ける

2020年の特筆すべき出来事として、『鬼滅の刃』(作者:吾峠呼世晴)が大ヒットしたことが挙げられる。漫画は2016年から2020年まで『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載され、単行本が全23巻刊行されている。そのシリーズ累計発行部数は1億5000万部にのぼるという(2021年2月時点)。また2020年10月には劇場アニメとして『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』が公開され、12月27日に興行収入が324億円を突破し、それまでの第1位であった『千と千尋の神隠し』を抜いた。

さて、この大人気作品の中心テーマには、じつは神話から読み解ける部分がある(以下に、『鬼滅の刃』に関するいわゆるネタバレがある。ご注意いただきたい)。

本作品では、首を取られない限り不死である「鬼」と、人間である主人公たちとの戦いが描かれている。主人公の竈門炭治郎は鬼にされてしまった妹の禰豆子を人間に戻すべく、鬼の祖であり頭(かしら)である鬼舞辻無惨を探している。炭治郎と禰豆子が体現する「家族愛」と、鬼が体現する「自己のみで完結していて愛はない」という価値観が対立しているものと読むことができるだろう。

「バナナ型」と呼ばれる死の起源神話がある

このような価値観の対立は、神話にも見られる。典型的な例が「バナナ型」と呼ばれる死の起源神話である。インドネシアの話だ。

太古にバナナの木と石が、人間がどのようであるべきかについて激しい言い争いをした。石は言った。「人間は石と同じ外見を持ち、石のように硬くなければならない。人間はただ右半分だけを持ち、手も足も目も耳も1つだけでよい。そして不死であるべきだ」。するとバナナはこう言い返した。「人間はバナナのように、手も足も目も耳も2つずつ持ち、バナナのように子を生まなければならない」。言い争いが高じて、怒った石がバナナの木に飛びかかって打ち砕いた。しかし次の日には、そのバナナの木の子供たちが同じ場所に生えていて、その中の一番上の子供が、石と同じ論争をした。

不老不死だが家族を持たない石か、死ぬけれど子を持つバナナか</h4>

このようなことが何度か繰り返されて、ある時新しいバナナの木の一番上の子供が、断崖の縁に生えて、石に向かって「この争いは、どちらかが勝つまで終わらないぞ」と叫んだ。怒った石はバナナに飛びかかったが狙いを外して、深い谷底へ落ちてしまった。バナナたちは大喜びで、「そこからは飛び上がれないだろう。われわれの勝ちだ」と言った。すると石は、「いいだろう。人間はバナナのようになるといい。しかし、その代わりに、バナナのように死ななければならないぞ」と言った。(大林太良、伊藤清司、吉田敦彦、松村一男編『世界神話事典 創世神話と英雄伝説』角川ソフィア文庫、2012年、148〜149頁を参照し要約した)

この神話の説くところによると、石は、それ自体不老不死で変わることなく生き続ける。そのかわりに、家族を持つことはない。もしも個体として不死であり、なおかつ子孫を持つことができたら、生き物が増えすぎて世界の秩序が成り立たないからだ。

一方、バナナは死ななければならない。しかし子を持つことができ、家族を成すことができる。個体として永久不滅か、個体としては死ぬが子を成すことで種として存続するか、どちらかなのだ。きわめて高度に練り上げられた神話の論理であると言える。

ほとんどの物語の原型は神話に出尽くしている

これは、『鬼滅の刃』の鬼と人間のあり方と似ている。鬼は個として永久不滅であり、神話の石の運命を生きる。人間は死なねばならない、そのかわりに炭治郎と禰豆子のきょうだいは強い家族の絆で結ばれていて、そこには愛がある。一方の側に不死があり、他方の側には死と愛があるのだ。

しかし鬼は家族に憧れてもいる。偽りの家族を作ろうとした悲しい鬼の話も本作には描かれていた。兄と妹のきょうだいが一体となった鬼も描かれている。死の直前に人間の記憶を取り戻すまでは、愛によるつながりを失っていたが、滅びる時に、人間であったはるか昔の記憶を取り戻し、ようやく愛を思い出す。やはり、人間側の愛と死、鬼の側の愛の欠如と不死が、本作の全体を貫く柱となっていると見ることができるだろう。インドネシアのバナナと石の関係性と酷似しているのだ。

現代の作品と神話は、このように関連付けて読み解くことが可能である。いや、もっと言ってしまえば、ほとんどの物語の原型は神話に出尽くしていると言っても過言ではない。もちろん、そのことは現代の物語の価値を貶めるものではない。むしろ、いつの時代も才能豊かな作家たちによって、神話に新たな生命が吹き込まれ続けているのだと私には感じられるのだ。

100万回生きたねこは、なぜ最後に死んで生き返らなかったか

子供の頃から愛読している絵本に、佐野洋子の『100万回生きたねこ』(講談社、1977年)がある。有名な絵本なので、ご存知の方も多いだろう。

この絵本は、1匹のとらねこの繰り返すいのちを描いた話で、生と死について深く考えさせる作品である。とらねこは100万年もの間、死んではまた生きることを繰り返し、決して本当の意味では死ななかった。

ある時、とらねこは野良猫として生まれる。めすねこたちにモテモテの立派な風貌で、とらねこ自身も自分のことが大好きだった。しかし、とらねこは自分に見向きもしない白いめすねこに恋をして、いつも一緒に過ごすようになる。そして、子ねこもたくさん生まれる。とらねこは、自分のことよりも、白いねことたくさんの子ねこたちをもっと大好きになるが、子ねこたちは大きくなってどこかへ行ってしまい、ついには白いねこも死んでしまう。

とらねこは、朝になっても夜になっても泣き続け、そしてある日泣きやむと、そのまま死ぬ。絵本の最後は、「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。」という一文で終わる。

なぜねこは、今度こそ本当に死んで生き返ることがなかったのか。その謎は、「カメのおねがい」というナイジェリアの神話で解き明かすことができる。この神話は、マーグリット・メイヨーによって子供向けに再話され、日本でも百々佑利子によって訳され『世界のはじまり』というタイトルで岩波書店から刊行されている。

ナイジェリア神話では「カメと石」で死の起源を語る

この世のはじめには、誰も死ななかった。カメにカメおくさん、男と女、石ころたち、この世にあるものはみんな、いつまでも生きていた。そういう風に決めたのは、この世の造り主であった。

ある日、カメとカメおくさんは、小さいカメがたくさん欲しいと考えて、造り主のところにお願いに行った。造り主は言った。「そうか、子供が欲しいのか。だが、よく考えなさい。子供を持つと、いつまでも生きていることはできない。いつかは死ななければならない。さもないと、カメが増えすぎてしまうからだ」。カメとカメおくさんは答えた。「まず、子供を授けてください。そのあとでなら、死んでもかまいません」。「では、そのようにしよう」と造り主は言った。それから間もなく、カメとカメおくさんに、たくさんの子ガメが授かった。

人間の夫婦も、同じようにして造り主のところへ行き、子供を授かった。

石は、子ガメや人間の子供たちがよちよち歩き回ったり、楽しそうにしているのを見た。けれども石は、子供を欲しいとは思わなかった。だから、造り主のところに行かなかった。

このようなわけで、いまでは、男も女も、カメもカメおくさんも、死ぬ時が来る。造り主が、そう決めたから。けれども、石は、子供を持たない。だから、死ぬことはない。いつまでも、生きている。(マーグリット・メイヨー再話、ルイーズ・ブライアリー絵、百々佑利子訳『世界のはじまり』岩波書店、1998年、34〜37頁を参照し要約、一部引用した)

100万回生きたねこは「石」から「バナナ」になった</h4>

このナイジェリア神話も、神話学では「バナナ型」に分類される。亀や人間は子を産んで死ぬ、つまりインドネシアの神話でいうバナナの命を生きているのだ。そして石は、子を産むことがない代わりに個体として不死である。

この神話に照らしてみると、『100万回生きたねこ』のねこの一生は、前半部分と後半部分で、正反対の意味を与えられていることがわかる。前半部分は、「石」の命である。真の意味で死なない。死んでも生き返る。すなわち、個として永久に存続する命である。後半部分は、「バナナ」の命である。子供を作って、子孫繁栄を得ることができる。しかし、個としては死なねばならない。

ねこの命は、一生は、どういうものだったのか。死んでそれで終わっただけなのか。命は無為なのか。決してそうではない。ねこは、愛を知った。愛の果実として、子供たちを作った。それが命の代償なのだ。愛は性でありそれは死と切り離せない。エロス(愛)とタナトス(死)は表裏一体なのだ。そしてそれらは不死の対極にある。それが神話の論理である。『100万回生きたねこ』の物語は、古い神話的価値観、死と愛と生への深い洞察を、現代によみがえらせている。

沖田 瑞穂(おきた・みずほ)神話学者

1977年、兵庫県生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了。博士(日本語日本文学)。神話学研究所を主宰。専門はインド神話、比較神話。おもな著書に『怖い女』(原書房)、『マハーバーラタ入門』(勉誠出版)、『世界の神話』(岩波ジュニア新書)、『インド神話』(岩波少年文庫)、『マハーバーラタ、聖性と戦闘と豊穣』(みずき書林)などがある。

(神話学者 沖田 瑞穂)


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