窮余の策で再生産した大戦機が大ヒット
軍事力がはるか格下のウクライナに、一方的な侵略戦争を仕掛けた挙げ句、百数十機もの戦闘機やヘリコプターなどを撃墜され、馬脚を露わしてまったロシア航空宇宙軍。とはいえ、依然として世界屈指の空軍力と航空産業を保持していることは、否定しようがない。
ところが1991年、ソ連邦の崩壊に伴う経済危機によって新生ロシアの航空産業は、仕事を失い窮地に追い込まれてしまった。そこで軍需工場「ストレラ・プロダクション・アソシエイション」は、窮余の策で第二次大戦の戦闘機を再生産して、欧米の航空博物館や大戦機収集家に販売する計画を思い立った。
大戦中に母体企業が、ヤコヴレフ戦闘機を生産していた同社には、なんと図面と治具が残っており、幸いにも当時の関係者から、指導を仰ぐこともできたそうだ。この計画から誕生したヤコヴレフYak-9UMは、非常に完成度が高いだけでなく、約9000万円(ちなみにP-51Dマスタングは2~4億円程度)という破格の安値だったので、最終的に24機も生産され大成功を収めたのだ。
旧日本軍飛行場跡で回収した零戦の残骸
アメリカでこのYak-9UMの販売代理業を営んでいた航空博物館「ミュージアム・オブ・フライング」のオーナーは、技術力が高いうえ人件費も安いストレラ・プロダクション・アソシエイションに興味を持ち、あるアイデアが閃いた。奇遇にもソ連邦が崩壊した1991年に、同博物館は零戦の残骸を入手していたのだ。そこで欧米でも非常に人気が高い零戦の新造計画を打診したところ、経済危機で更なる仕事を必要としていた「ストレラ・プロダクション・アソシエイション」と同オーナーの思惑は、完全に一致して契約が成立したのである。
赤道直下のニューギニア島西端に位置するボバ飛行場は、かつて日本陸海軍が共同で中継基地として利用していたため、戦後は数多くの日本軍機が放置されていた。同基地跡を調査したアメリカ人大戦機発掘家は、数機の日本軍機の残骸を抽出して本国に持ち帰った。