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「ロシアに占領されても電子政府で対抗」旧ソ連崩壊の引き金・バルト三国が“プーチンの野望”を挫く

PRESIDENT Online

「東欧革命」がもたらした独立のチャンス

日本にも影響を及ぼした独ソ不可侵条約ですが、独ソ戦が開始されると、バルト三国は一時ドイツに占領されます。

しかし、反転攻勢に出たソ連軍によって解放され、1944年から、再びソ連邦を構成する共和国となりました。戦後はロシア人が多数移住し、ロシア語が強制されるなど、民族意識を押さえつけられます。

それから約40年後、ソ連がゴルバチョフ政権になって改革を始めると、いわゆる「東欧革命」が起きて、東欧諸国のソ連離れが進みます。

バルト三国は、もともとそれぞれ独立国ですから、自分たちの国をつくりたいという思いをずっと持ち続けていました。ソ連がガタガタになって、再びチャンスが訪れたのです。

グラスノスチがもたらした抵抗運動「人間の鎖」

急速に独立の機運が高まるきっかけは、グラスノスチ(情報公開)によって、1939年の独ソ不可侵条約に付帯する秘密議定書の存在が明るみに出たことでした。この秘密協定によるソ連のバルト三国併合は違法である、という認識が強まり、三国が連帯して大規模な抗議運動を起こすことになります。

1989年8月23日、独ソ不可侵条約の締結から50年目にあたるこの日、条約の締結に抗議して、エストニアの首都タリンから、ラトビアの首都リガを経て、リトアニアの首都ビリニュスまで、100万~200万人もの人々が立ち並び、三国を「人間の鎖」で結びました。

当時の三国の総人口が800万人弱で、ロシア系の住民を除いて考えると、少なくとも5、6人にひとりが参加した大規模な抗議運動です。

およそ600キロメートルの距離を結ぶ「人間の鎖」の映像や写真は、世界の注目を集めました。エストニア、ラトビア、リトアニアが「バルト三国」として認識されるきっかけとなり、ソ連とドイツの支配に翻弄(ほんろう)されてきた歴史や、ソ連から独立を要求していることを、世界中の人々が知ることになったのです。

それから4カ月後、ソ連人民代議員大会は秘密議定書の存在を確認し、それを不当かつ無効とする決定を採択しました。

三国の民主的運動「人民戦線」のうねり

抗議運動を推進したのは、三国それぞれに組織された「人民戦線」です。リトアニアでは「サユーディス(運動)」と呼ばれました。

人民戦線は、ファシズムの台頭に対抗するため、さまざまな政党や団体が統一した組織となって戦う必要があるとして、1930年代にスペインやフランスで結成されたのが始まりです。

バルト三国においては、ゴルバチョフの改革に伴って、ソ連当局に対して民主化を求める市民運動が、主に環境問題からスタートしました。バルト海を汚染から守るとか、チェルノブイリ型原子力発電所の拡大反対とかいった運動です。

三国それぞれが、さまざまな民主的運動を統一しようということになり、人民戦線がつくられ、次第に独立回復運動へと発展していきました。三国の人民戦線組織が互いに協力し合うようになり、指導層にも波及したので、大規模なデモンストレーションが実現できたのです。

1990年3月、まずリトアニアが独立を宣言します。翌年8月、ソ連国内で保守派のクーデターが失敗に終わると、直後にエストニア、ラトビアが正式に独立を宣言しました。ソ連が崩壊したのは同年12月です。

一般的に「ソ連が崩壊して15の共和国が生まれた」と表現しますが、正確にいうと、バルト三国はソ連崩壊の前に、それぞれ独立を果たしたのです。


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