「戦犯」といわれた東芝カリスマ経営者は生前、何を語ったか

 
東芝で社長や会長を務めた西田厚聡氏

 カリスマ経営者か、「戦犯」か。電機の名門、東芝で社長や会長を歴任し、平成29年12月8日に73歳で亡くなった西田厚聡(あつとし)氏は毀誉褒貶(きよほうへん)、相半ばする人物だった。米原発会社ウェスチングハウス・エレクトリック(WH)の買収を手がける一方、そのメーカーが巨額損失を抱えて経営破綻し、経営危機を招く要因にもなったからだ。東芝崩壊の序章は、西田氏が牽引(けんいん)してきたパソコン事業での不正会計問題。「チャレンジ」と称して部下に無理な収益改善を要求し、西田氏ら歴代3社長が主導して粉飾した疑いが指摘されていた。西田氏は生前、2時間近くに及ぶ産経新聞の単独取材に応じ、粉飾の認識を否定していた。「戦犯」といわれた元経営者は当時、何を思ったのか。(今仲信博、大竹直樹)

「監視委は幼稚」

 「東芝のパソコン事業は僕がゼロからやってきているんだ」。28年11月、自宅のある横浜市内の中華料理店で取材に応じた西田氏。ノートパソコンを世界トップシェアに導き、「パソコンの西田」の異名をとっただけに、パソコン事業への思いの強さが伝わってきた。

 不正会計問題では、損失の先送りなどにより、東芝が21~26年に計2248億円の利益を水増しされていたとみられていた。「チャレンジ」と称した過大な収益目標の達成を求める経営トップの圧力が背景にあったとされる。27年12月には、金融庁が過去最高となる約73億円の課徴金納付を命令した。

 “市場の番人”として証券市場の不正を取り締まる証券取引等監視委員会は、西田氏ら歴代3社長を任意で聴取した。

 西田氏は「あまりに幼稚な調べだった。5時間も話して、ほんの少ししか調書を書いていない。文章もめちゃくちゃで、僕が『添削してやろうか』と言ったら、『やめてください』と言われた」と振り返った。

「チャレンジ」50億円

 監視委は約1年にわたる調査をほぼ終え、28年12月に歴代3社長を刑事訴追すべきだと結論付けていた。

 西田氏は「不勉強なのに、僕らを刑事告発しようなんてとんでもない話だ」と批判。「カカカカ」と一笑に付した。

 批判の矛先は、外部の弁護士らで構成する東芝の第三者委員会にも向けられた。

 「会社経営というものを分かっている人がいない。会社経営の常識も知らないで、レポートを書いている。たちの悪いことにペナルティーがないから好きなことを書ける」

 第三者委の報告書は、20年度上半期に西田氏が50億円の利益上積みを「チャレンジ」として求めたと指摘した。だが、西田氏は「僕が厳しいチャレンジをしたから、PC社(パソコン事業)の人たちが不適切会計をやったと。そういう判断自体が大きな誤りだ」と怒りは収まらない。

 50億円の「チャレンジ」については「頑張らずにずるずると赤字が出るとなると、歯止めを作らなければならない。50億しか利益が出ないのであれば、50億積んで100億出せということだ」と語った。

 その上で、こうも主張した。

 「僕はパソコン(事業)を何十年もやってきた。みんなに言っていたのは、『どんなに状況が悪くても少なくとも3桁の数字は出す』ということ。だから100億の利益はミニマム(最小限)の要求だ。多額のチャレンジでもない」

 「きついチャレンジをしたって、それを達成できなかったからといってペナルティーは科せられない。チャレンジの強制力は著しく低い」

バイセル初めて聞いた

 西田氏は東大大学院でイラン出身の夫人と出会い、学生結婚。イランに渡り、東芝の現地合弁会社に採用されると頭角を現して、東芝本体に転じた異色の経歴の持ち主だ。

 17年に社長に就任すると、「選択と集中」の実践者として手腕を振るったが、西田氏が率いたパソコン事業で、部品取引を悪用した利益のかさ上げ疑惑は持ち上がった。

 台湾の製造委託先に部品を販売し、完成品を買い戻す「Buy-Sell(バイセル)取引」を採用。部品の調達価格が外部に漏れないよう一定金額を上乗せした価格で販売し、その分を上乗せした価格で買い戻していたというのだ。

 20年ごろからは四半期ごとの決算期末に、部品の価格をつり上げた上で大量販売して過大な利益を計上し、翌期に完成品を買い戻して利益を消す会計処理を行っていたとされる。

 「昔はバイセルという言葉はなく、普通の部品の取引だった。僕もこの件(不正会計問題)が起きてからバイセルなんて言葉は初めて聞いた」

 西田氏はこう振り返った。

「どれだけ利益を出そうが勝手」

 証券業界関係者によると、パソコン事業では佐々木則夫社長(当時)時代の21年以降、バイセル取引の悪用によって得られる一時的な利益を見込んだ予算を作成していた。予算は各事業部門ごとに作成していたが、パソコン事業だけは会長だった西田氏と佐々木、田中久雄元社長が主導して作っていたとされる。

 営業利益の推移は四半期末の3、6、9、12月に急増し、翌期に急減する不自然な動きを繰り返し、24年9月以降の四半期末は営業利益が売上高を上回る異常な状態となっていた。

 監視委は翌期に消される見かけ上の利益だとして「明らかな粉飾」とみていたが、西田氏はこう反論してみせた。

 「代金はちゃんと支払ってもらう。そのときに部品の価格がいくらであろうが、どんなに高い値段であろうが、どれだけ利益を出そうが勝手。台湾(の製造委託先)の人は東芝にちゃんとお金を払っている。それに対し利益が出る。それを計上するのは当たり前のことで禁じることはできない。会計原則上ね」

表面化した見解の相違

 不正会計問題をめぐっては、「明らかな粉飾」と主張する監視委と、立件困難とみる検察当局との間で見解の相違が表面化した。

 検察は、実際に部品はやり取りされており、架空取引とはいえないなどとみていたが、監視委は、取引の実態としては東芝の在庫部品を台湾の製造委託先に預けただけにすぎず、部品の形式的な移動によって判断されるものではないと主張していた。

 これに対し、西田氏の主張はこうだ。

 「バイセル取引によって利益を得るということは不可能だと思っている。台湾勢(業務委託先)に不必要に、余分に部品を買わせ、部品を押し込んで利益を得て計上したとみているようだが、部品の押し込みなんか、そんなことは今考えても不可能だ」

 監視委はこの利益計上が粉飾に当たり、西田氏ら3人が認識していたとみているが、3人は不正会計の指示や認識を否定したとされる。改めて不正の認識を問うと、西田氏はこう強調した。

 「部品を送るという方式は世の中でやっていることで、東芝はいちばん遅れてやった。2004(平成16)年にPC社(パソコン事業)の社長をしていた僕が決めた。そのときの調達の部長が田中(久雄)さんだった。調達のことは彼に全部任せていた。そのときに報告してくれていれば分かったのだが、どういう風に運用されているのか、会計原則でされているのか、報告を受けたことがないので僕は今でも知らない」

再建見ないまま死去

 西田氏といえば、東芝のパソコン事業の牽引役として知られる。だが、西田氏は「僕が長いことパソコンをやって愛着をもって、これを引きずって社長になってからもパソコン事業だけを僕が詳しく見ていたと、そういう勝手な憶測を記事にしている人がいるが、それは間違いだ」と話す。

 むしろ、「原子力と半導体を前面に押し出した。中心的な事業はこの2つだと押し出した。パソコンなんてそんなところに入ってこない」と強調する。

 確かに、西田氏は在任中、東芝EMIや東芝不動産などを次々と売却する一方、原発と半導体メモリーに重点投資。「原発分野で世界をリードする」と、18年にはWHの買収に当時の為替レートで6千億円超を投じた。だが、この買収が東芝の経営危機の主因になったのは、否定しがたい事実だろう。

 その結果、西田氏が重視した稼ぎ頭の半導体メモリー事業も売却せざるを得なくなり、東芝の威信は地に落ちた。西田氏は東芝の再建を見ないまま、29年12月8日、急性心筋梗塞で世を去った。

 ●東芝=昭和14(1939)年、芝浦製作所と東京電気が合併して東京芝浦電気として発足し、59年に東芝に改称した。半導体や発電設備、エレベーター、事務機器などを手がける。平成29年3月期の連結売上高は4兆8707億円、同年3月末に5529億円の債務超過に陥った。経団連会長に石坂泰三氏と土光敏夫氏を輩出した。

 ●東芝の不正会計問題=損失の先送りなどにより、東芝が平成21~26年に計2248億円の利益を水増しした問題。27年4月に発覚し、多くの事業で「チャレンジ」と称した過大な収益目標の達成を求める経営トップの圧力が背景にあったとされ、同年7月に歴代3社長が引責辞任。経営再建中の28年12月には米原発事業をめぐり数千億円規模の損失が出る可能性を発表した。