松下康雄元日銀総裁死去、バブル後金融体制の礎築く
日銀は25日、日銀総裁や大蔵事務次官などを務めた松下康雄氏が20日に死去したと発表した。92歳。神戸市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行った。
業界再編の火ぶた
戦後経済史の激動期に大蔵事務次官や都市銀行のトップも歴任し、バブル経済崩壊後の現在の金融政策やメガバンク体制の礎を築いた。
接待汚職事件で総裁を引責辞任してからは要職などを引き受けず、表舞台にほとんど出なかった。
東京・世田谷の教会で25日、葬儀がしめやかに行われた。参列した元大蔵事務次官の西垣昭氏は「自分の目標だった。論理明快で、どんなときも大騒ぎしない人だった」と悼んだ。
「1足す1は2ではなく、3にも4にもできる」。松下氏は1990年、都銀中位行だった太陽神戸銀行の頭取として三井銀行との合併をまとめ、業界再編の火ぶたを切った。
大蔵次官は退官後、政府系金融機関への天下りが慣例だったが、「(ポストの)空きがなかった」という。
最初に声がかかった郷里の神戸市に本店を置く太陽神戸銀を舞台に、金融の自由化や国際化への対応に手腕を発揮。太陽神戸三井銀行はその後、三井住友銀行へ発展した。
不安沈静化に奔走
94年に満を持して日銀総裁となり、景気浮揚を狙って超低金利政策に踏み出したが「年金生活者ら庶民の金利収入が減る」との批判にさらされた。
景気低迷下で財政再建を優先し、消費税増税に踏み切った政府や大蔵省の責任も含め、金融行政失敗の汚名を一身に背負った。経営破綻した山一証券への特別融資(日銀特融)を決めるなど金融不安の沈静化にも奔走した。
97年6月、「長年の悲願」だった新日銀法が可決・成立し、政府側からの独立性を高める道筋を付けた。「10年に1人の能吏」と呼ばれ、政治との間合いを熟知していたからこそ実現できた。
98年3月の総裁辞任時の記者会見では「平和な生活を送りたい」と述べ、金融危機や不祥事の重圧から解放され安堵したような表情を見せた。その言葉どおり晩年は妻とテニスや海外旅行をして過ごしたという。
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