【動きだしたら止まらない~クロスフォーの挑戦~】(5-2)
商品や市場拡大 地元・業界を牽引
東京五輪が開催される2020年に創業40年を迎えるクロスフォーは、宝石の輸入販売会社として創業。市場環境の激変などにもまれる中でメーカーへの転身を果たすとともに、商品や市場を広げ、地元や業界を牽引(けんいん)する公開企業にまで発展した。
◆宝石輸入販売会社として創業
土橋秀位(ひでたか)氏はクロスフォーが本社を置く山梨県の出身。「実家は山の中の田舎で、甲府は近くにある大都会だった」(土橋氏)という。その甲府を含めた山梨との関わりが、その後の土橋氏にも多大に影響していくことになる。
土橋氏は海のない山梨で育った反動からなのだろうか、大学は海洋学部に進学した。
「学生時代は、海洋資源の探査などを学びました。その一方で、世界を放浪するような仕事に魅力を感じるようになりました」
土橋氏は、放浪先の東南アジアなどでついつい宝石の原石に目を奪われた。
「これを調達して持ち帰り、郷里である甲府の宝石職人に売ればビジネスになる」と考えたのだ。そのために、大学卒業後は米国に渡って宝石学を学び、世界的な鑑定資格も取得した。そして1980年、クロスフォーの前身となる宝石輸入販売会社、土橋宝石貿易を甲府で創業した。
趣味と実益とはこういうことを言うのだろう。ビジネスは順調に推移した。87年には同様の事業を手掛けるシバドを設立して事業を株式会社化する。ちなみにシバドとは、土橋(ドバシ)を逆から読んだものだ。
◆メーカーへの転身
土橋氏が創業した80年代は、外国為替が1ドル240円から同120円程度にまで急速に円高が進んでいく局面にあった。この急速な円高は日本の輸出産業を直撃。日本経済を牽引してきた企業の業績悪化が深刻化していく。いわゆる“円高不況”だ。
その対抗措置として、当時興隆していた時計やカメラといった精密機械や電子部品などの産業は、国際競争力の回復を目指して相次いで海外生産を推進していくことになる。逆に、円高は海外からの物品の調達に加え、海外旅行などもより身近なものに変えていった。
現に80年には日本人の海外渡航者数は400万人を突破。80年代後半になると、毎年100万人以上のペースで増加していくことになる。
そのころだった。
東南アジアの山奥まで自ら分け入り直接原石を買い付けるという土橋氏独自の展開は功を奏した。80年代後半からは内需も急回復。バブル経済が頂点に達した90年には30億円を超える売り上げを実現した。法人化してわずか3年。事業は順調に拡大したかにみえた。
しかし、株式や土地に対して過剰に還流した資金は、やがて限界点に達する。その直後にバブル経済は崩壊。90年代半ばには、ジュエリー市場もかつてない未曽有の低迷にさいなまれることになった。
90~91年のバブル絶頂期には3兆円規模といわれた日本のジュエリー市場は、バブル崩壊以降は縮小を続けている。2008年のリーマン・ショックで1兆円を、東日本大震災で9000億円を割り込んだ。市場の縮小は、その後顕在化した少子高齢化、人口減少などもあり、いまだに収束していない。
この影響は大きかった。
バブル経済下では引きの強かった高級外車や高級時計などの需要も急減。ジュエリー市場でも、高級品はもとより、一般的な商品の売れ行きも大きく鈍った。ジュエリーが活躍する結婚式やパーティーも総じて地味なものにシフト。当然のことながら、一大生産地である甲府の宝飾加工産業も冷え込んだ。これまで通りに石を調達しても、甲府にはそれらに対する購買需要がなくなった。
「これまでのように原石の輸入販売だけでは企業として存続できない。自ら商品を開発し、新たな市場を創出しなければ…」
同社のメーカーとしての挑戦は、ここから始まったのだった。
◇
他社と差別化 独自カットで特許取得
◆存続かけた商品開発
土橋氏は、自らジュエリーの研究開発に乗り出した。特に留意したのは差別化だ。他社がやっていないこと、新しいものを作らねばならなかった。そうしなければ、創業以来原石を購入してもらってきた顧客と競合してしまう上、市場で価格競争に巻き込まれてしまう。企業の存続をかけた商品開発。期間は3年にも及んだ。
それでもあきらめなかった。「成功するまであきらめなければ失敗にはならない。あきらめたら、その時に失敗になる」
こうして1999年、同社は独自に発明した46面体カット「クロスフォーカット」を実用化した。2001年には国内業界初の特許も取得している。
これについては、あえて国内業界初とうたう必要がある。実は、95年に海外企業がカットで特許を取得した。土橋氏はこの事例でカットが特許になることを知ったのだという。
「それならば、自分で独自のカットを考えよう」
これがクロスフォーカットへとつながる契機になった。クロスフォーカットは、はじめから特許取得を構想して戦略的に開発したものだったという。
このカットは、光の反射による効果で宝石の中にクロス(十字)のデザインが浮かび上がるというもの。その独自性が評価され、名実ともにメーカーとして歩み出すことになった。
2002年には社名も「クロスフォー」に変更。これを機に、原石の輸入販売会社から製造販売会社へのシフトを強めていくことになった。
◆「ダンシングストーン」誕生
他社にない商品の開発で市場開拓の準備を整えた同社は、07年には初の海外拠点として香港子会社を設立。成長市場であるアジアを視野に入れた展開に乗り出す。この香港子会社は、現在の同社にとって、海外展開を支える重要拠点になっている。
「独創性で新たな市場を生み出したい」。その強い思いは10年に大きく花開いた。同社の名を世界にとどろかせることになる「ダンシングストーン」を開発、この機構を採用した商品の投入が始まった。
鋭利にとがった接合部を持つ丸環でぶら下げた宝石は、人間の呼吸や鼓動といったわずかな動きにも反応。付けている限り動き続ける。動き続けることで光を反射し続け、これまでになくキラキラと輝くジュエリーという開発目標が達成された。
土橋氏の狙いは的中した。そのブランド名は国内にとどまらず、世界に広がっていった。13年には特許を取得。この際に同社は、日本のほか米国や中国など海外でも徹底して特許を取得している。これが、後に多くのロイヤルティー収入をもたらすことになる。
ダンシングストーンを需要の旺盛な海外市場、特に、中国を中心とするアジアで積極展開しようと、16年には香港子会社の下に中国法人を設立した。
同社にとって、目下の事業の中核は海外事業。そのさらなる拡大は至上命題だ。この時期に設立した子会社、孫会社はいまではその大きな足掛かりとなっている。
一方、甲府の本社については従業員の増加などから手狭になっていた。これを解消するために、17年には甲府市国母に現在の本社ビルを完工。自社内に試作ラインを備えるなど、開発力の向上を支える体制も整えた。
17年7月には、東証ジャスダックに株式上場を果たした。同社はこれを“新たなスタートライン”と位置付ける。
独自の発想に基づいた開発力、山梨の宝飾加工産業と連携したモノづくり、そうして生み出される商品を世界に向けて発信していく行動力…。
同社に対しては、投資家や従業員はもちろん、地元経済や宝飾業界からの期待も大きい。同社の社是にはこうある。
「私達は変化と創造に挑戦することにより百年企業を目指します」
みんなの期待を乗せた挑戦は止まらない。
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