【成長への挑戦 熊谷組の120年】(5-2)引き継がれる挑戦者の系譜

 
熊谷組の創業者である熊谷三太郎氏

 ■「100年後に残る有意義な仕事を」

石工からのスタート

 「三太郎ではないか」

 横浜で貿易商となる夢を抱いて家出を企てた少年の前に、叔父が立ちはだかった。1886(明治19)年2月、福井県敦賀駅前でのことだった。福井市の自宅に連れ戻されれば未来はない。絶望で天を仰いだ少年は、このとき16歳だった。名を熊谷三太郎という。120年の歴史を刻むことになるゼネコン、熊谷組の創業者となる男だ。

 熊谷三太郎は福井県敦賀市に生まれ、父の再婚に伴って福井市に移り熊谷家の養子となった。尋常小学校卒業後進学はかなわず、野菜の売り子や警察署の給仕などを務めた。職場の警察署長は目先の利く三太郎を高く買っており、貿易などにかかわる横浜の知人を紹介してくれた。ただ、跡取りである三太郎を熊谷家が手放すはずはない。有り金をつかんで家出を決行したが、熊谷家からの電報を受けていた実母方の叔父に見つかり、引き留められたのだ。「福井に戻るなら死ぬ」。三太郎の固い決意をみた叔父は自宅にとどまることを許す。居候も気まずくなり、三太郎は叔父の石屋を手伝い始めた。石工修業は5年に及んだ。その後、曲折を経て福井で灯籠などを作る石材業を営んでいたがうまくいかず、当時活発化していた鉄道敷設工事などに資材供給を行うようになる。1898(明治31)年、京都電灯が計画した福井県宿布(しゅくぬの)での水力発電所建設工事で、三太郎は堅石積みなどの工事を請け負い、完成を見た。これが熊谷組の創業元年とされている。

飛島組の「熊谷」

 こうした活動の中で、三太郎は5歳年下ながらすでに土木工事会社「飛島組」を率い、頭角を現していた飛島文吉(飛島建設創業者)と知己を得た。明治38年、福井県中尾発電所の工事を受注した飛島氏は、石材関連の業務をすべて三太郎に任せるほど、全幅の信頼を置いた。

 飛島組における三太郎の立場は、社員でありながら熊谷組を率いる下請け業者のようでもあり、また条件によっては三太郎が工事案件を単独で請け負うこともあるなど、きわめてユニークなものであった。当時の飛島組には、後に前田建設工業を創業する前田又兵衛も社員に名を連ねており、隆盛ぶりがうかがえる。多数の土木工事にかかわるなかで、三太郎は徐々に経営者としての風格を身に着けていった。

 1916(大正5)年、46歳となった三太郎は、のちに右腕となり3代目熊谷組社長も務めた牧田甚一(当時25歳)と知り合う。中国地方を縦断する根雨線(現伯備線)の建設現場。鉄道技術者だった牧田は、現場所長としてさっそうと切り盛りする三太郎に強い印象を受けた。「小柄だが美髭をたくわえ、金縁眼鏡に金側時計金鎖のいでたち。きざなところは少しもなくスマートなジェントルマン。仕事一筋の男らしさがあふれていた」。牧田は大柄で相撲や野球を得意としたというが、「この人となら一生をかけることができそうだ」と直感し、三太郎に心酔していく。「俺と一緒にやろう」。三太郎に誘われ、以後、牧田は行動を共にし、数々の難工事を手掛けることになる。

 昭和に入ると地方の鉄道会社などによる線路の敷設工事が盛んになるが、採算性が悪い工事が増えた。飛島組ではあるとき工事代金が回収できない事態となり、鉄道工事の受注から手を引くようになった。これを受けて、三太郎が個人で敷設工事を請け負うことが増えていく。例えば、山形県の鶴岡と湯の浜を結ぶ庄内電鉄の工事は、技術的には容易であったが発注者側の資金力が乏しく、三太郎が工事代金の立て替えから電車車両の買い付けまで面倒をみることになってしまった。同様の工事がいくつもあったという。いかに採算を合わせたのか、詳しく伝わっていないが、特殊なノウハウと仕事への情熱、資金調達を可能にする個人的な信用が可能にしたのかもしれない。

業者ばなれの果敢さ

 1934(昭和9)年、三太郎は運命の工事を請け負うことになる。愛知と長野を結ぶ三信鉄道(現飯田線)、中部天龍-門島間の工事だ。45キロメートルの区間に116のトンネル、54の橋梁(きょうりょう)を作る計画。しかも鉄道会社側には資金があまりない状態で、当初話が持ち込まれた飛島組では工事代金が未回収になる危険性や工事自体が困難であることから社長・文吉の意向で受注を断ったため、三太郎が熊谷組の仕事として請け負うことにした。

 問題は資材の運搬。天竜川の上流に運んだセメントや石材を川下りの要領で舟で現場に運び、帰りは船頭が空舟に綱を付け川辺の岩伝いに引っ張り上げた。冬には河原に雪が積もり舟は帰れない。陸路では山越えとなり、資材どころか作業員の食料も枯渇しかけるありさまだった。また、政府の助成金制度の関係で竣工(しゅんこう)期限が短かった。難工事は終えたがいまだ10キロあまりのレール敷設が終わらぬ状態で鉄道省の検査が入った。落第の判定を受けそうになりながら、期限ぎりぎり最後の1日でレール敷設をやり遂げたのは、もはや伝説となっている。

 三太郎はなぜこんな工事を請けたのか。「100年後に残る有意義な仕事をやってみたい」「沿線地方の人々の利益に貢献したい」。そんな言葉を残している。当時の新聞では三太郎の偉業を「業者ばなれした果敢さ」と評した。1937(昭和12)年に三信鉄道は全線開通した。この工事で自信をつけた三太郎は、翌1938(昭和13)年1月6日、晴れて「株式会社熊谷組」設立に踏み切る。三太郎68歳、副社長には息子の太三郎、専務には牧田が就任した。あの家出から52年を経ての一本立ちだった。

米軍の土木力に驚嘆

 1945(昭和20)年までに熊谷組の福井本社、東京営業所ともに空襲で焼失したが、仮事務所で事業を継続した。このころ、牧田は兵役から帰還した将校から「米軍は島を占領するとブルドーザーで森を切り開き、1カ月もせずに飛行機を飛ばす」との話を聞き、驚嘆したという。戦後、連合国軍のマッカーサー最高司令官も米国の勝因の1つに機械土木力の働きをあげた。牧田は「わが国の実情に合った土木機械を製作する工場が必要だ」と思い立ち、豊川市に独自の機械製造工場を立ち上げた。熊谷組の豊川工場は同社の技術力の源泉ともなり、現在は子会社のテクノスとして自社用、外販用各種技術・サービスの供給に尽力している。

 1949(昭和24)年には当時国内最大級の平岡発電所工事を受注。天竜川流域開発の一環で、三太郎にとっても念願の工事案件だった。喜びもつかの間、三太郎は病に倒れ、死の床についた。牧田は三太郎を見舞った際、同発電所工事の様子を収めた記録映像を持ち込み、即席の試写会を開催した。病床から食い入るように映像を見ていた三太郎は「よかった、よかった」と子供のように喜んだという。その3カ月後、81年の波乱にとんだ人生に幕を閉じた。

大町トンネルの死闘

 その後も熊谷組の快進撃は続く。高度経済成長期の1956(昭和31)年黒部川第四発電所工事で、ダム建設が予定されている黒部峡谷の奥地に資材を運び込むため、北アルプスを貫く5400メートルの大町トンネル掘削工事を請け負ったのだ。

 ダム工事の成否を決めるこの工事は、当初は順調に進んだが、大町側から1700メートル地点で大量の地下水を内包した大断層・破砕帯に遭遇した。坑内は最大で毎秒660リットルもの出水と土砂に見舞われ、崩落の危機に陥った。地下水は4℃の低温で、作業を阻んだ。排水用のトンネルを何本も掘ったが、効果は限定的だった。

 ルート変更も検討され始めるなか、現場で陣頭指揮をとった熊谷組笹島班の笹島信義は「冬になれば掘れる」と断言し、計画通りの工事継続を主張。実際に排水トンネルの効果と黒部の厳寒で湧水が減少したことで工事可能となり、遭遇から7カ月後、見事破砕帯の突破を勝ち取った。「土木工事は事前に読み切れない要素が無数にある。最後に克服するのは精神力だ」。破砕帯突破を受け、牧田はのちにそんな思いを述べている。この工事の顛末(てんまつ)は木本正次の小説「黒部の太陽」で詳しく描かれ、後に同名の映画が公開された。主演の石原裕次郎が演じた岩岡剛は、笹島信義がモデルだ。

 他のゼネコンと同様、熊谷組も徐々に建築部門が業績を伸ばすようになった。1960(昭和35)年に都道府県会館(東京都千代田区)を完成させ、建築界最高の栄誉となるBCS賞を受賞した。昭和40年代には大阪国際空港ターミナルビルなどを手掛け、大阪万博でも2パビリオン建設した。同時期、地下5階、地上53階建ての超高層ビル新宿野村ビルの建設案件が持ち上がった。浄水場の跡地の現場は地下に複雑な埋設物があり、その移設など多くの難題を抱えていた。当時社長だった牧田は「熊谷組単独でやり抜く」と単独受注を決め、社員は大いに奮起したという。1975(昭和50)年に着工、計画通り3年後に完成を見た。折しも熊谷組創設40周年のタイミングだった。

 一方、土木分野では上越新幹線の中山トンネルを受注。導坑を掘っても数週間で地山が押し出してくる「膨張性の山」で難航を極めた。欧州の最新工法を導入し、山の動きを止めて貫通。業界内で「トンネルの熊谷」の評価を盤石なものとした。その後、本州と北海道を海底で結ぶ青函トンネル工事などにも参加。香港を皮切りに海外事業も本格化し、台湾、東南アジア、欧米、豪州など世界中にネットワークを広げていった。

厳冬を耐え再成長へ

 1980年代はバブル景気を受けて国内外で大型の不動産開発にも進出し、1991年には過去最高となる売上高1兆2000億円を計上したが、その後はバブル崩壊の影響を受け、業績が急速に悪化し、20年にも及ぶ“厳冬の時代”を迎えることとなる。経営危機に見舞われ、金融機関から二度の債務免除、優先株引き受けによる資金援助を受けた。それでも技術の熊谷組への信頼は厚く、その後の国土強靱(きょうじん)化のニーズに応える形で業績を急回復させ、2014年には支援金融機関など向けに発行していた優先株もすべて消却し、再建から成長へのステップを刻み始めた。市場環境の変動も大きく、熊谷組ではまだ確実な成長軌道を描き切れていないのが実情だ。それでも「アンビルド建築」とみられたらせん構造の高層集合住宅「陶朱隠園」を完成させ、また大胆な他社との提携戦略に踏み出すなど動きが活発。不可能を可能にする元気な熊谷組に復帰しつつある。