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3年経ってもふっくら 「奇跡のパンの缶詰」の意外な行き先

 災害に備えた非常食のバリエーションは年々豊かになり、味や好みでさまざまな商品を選べる時代になっている。だが、昭和のころは非常食といえば専ら乾パンで、そのことに疑問を挟む余地などなかったように思う。平成のはじめ、その市場に風穴を開けたのが「パンの缶詰」だ。

 開発のきっかけは阪神淡路大震災

 パンの缶詰は、1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに誕生した。開発したのは、ごく普通の町のパン屋だったパン・アキモトの社長、秋元義彦さんである。

 あの震災が起きたとき、栃木県那須塩原市のパン・アキモトでは2000個のパンを焼いてトラックに乗せ、神戸へと送り出した。無事に到着したものの、混乱の続く避難所で半分以上が捨てられてしまうという苦い経験をした。保存料などを一切使わない安心安全なパンだからこそ、劣化は早かった。秋元さんは言う。

 「被災した人に食べてもらうために作り、さまざまな人の力を借りて神戸まで届けたので、捨てられたことには悔しさが残りましたね」

 とはいえパン屋の日常は忙しい。すぐに何か行動しようという気持ちが芽生えたわけではなかった。しばらくして、神戸の知人から連絡が入る。

 「君が送ってくれたパンのようにやわらかくて、保存もできるパンを作ってくれないかな。乾パンは、お年寄りや子どもには堅すぎるんだよ」

 電話を受けた秋元さんは、それは無理だと断ろうとしたが、被災した知人の思いを聞くうちに考えが変わっていく。

 「日本人は豊かに贅沢(ぜいたく)になったのに、非常食だけが変わっていない。被災した人だっておいしいものが食べたいんだよ」

 秋元さんの心には、自分たちが作ったパンが避難所で捨てられてしまったことも、澱(おり)のように残っていた。その日から、保存できるやわらかなパンを作ることは彼のミッションとなった。

 パン工房の片隅で、日々の仕事の合間に開発が始まる。

 最初に試みたのは、真空パックだった。焼き上がったパンをビニール袋に入れて専用の機械で空気を抜く。パンはみるみるしぼんでいき、袋を開けても元には戻らなかった。失敗である。

 次に試みたのが缶詰だった。しかし、これも順調に進んだわけではない。缶詰の機械を借り、まずは焼いたパンを入れてふたをした。1週間後に缶を開くとカビだらけ。缶の中に雑菌が入ってしまったのだ。

 次は缶に生地を直接入れて焼いてみた。これなら缶の中まで一緒に殺菌できる。だが、缶の中に生地がくっついて、またもや失敗。今度は、缶にベーキングシートを入れて焼いたが、滑って抜けるためうまくいかない。秋元さんは、さまざまな紙で焼いては失敗を繰り返した。

 そして、諦めず試行錯誤するうちに、薄くて水分を吸う食用の紙を海外から見つけだす。最後は、缶に脱酸素剤を入れて完璧な無酸素状態を作り出し、奇跡のようなパンの缶詰が完成した。阪神淡路大震災から1年半の月日がたっていた。

 捨てられないために作った缶詰を、また捨てるのか?

 1996年に完成したパンの缶詰は、販売を始めてもなかなか注目されなかった。そして、まったく売れなかった。

 広く知ってもらうため、手っ取り早いのはテレビCMや新聞や雑誌の広告だが、それほど大きな資金はない。そこで秋元さんは知恵をしぼった。新しくできたパンの缶詰を、地元の市役所に500缶プレゼントし、9月1日の防災の日に贈呈式を開くことにしたのだ。式には多くの記者が取材に訪れ、カメラの前で注目を浴びながら秋元さんは語った。

 「このパンの缶詰は、阪神淡路大震災の被災者の声から生まれました。お年寄りや歯の悪い人、子どもたちにも食べやすい新しい備蓄食です。1年半の開発期間を経てようやく世に送り出せます」

 午前中にセレモニーを終えると、NHKの正午の全国ニュースで放送され、夕方には国際ニュースにもなった。これをきっかけにさまざまなメディアからの取材も増え、多くの人の目に留(と)まるようになる。そうしてまったく売れなかったパンの缶詰は、だんだんに販路が広がっていった。

 新潟中越地震では自治体から直送

 次にパンの缶詰が注目を集めたのは、2004年に起きた新潟中越地震だ。被害の大きかった長岡市は、那須塩原市から直線距離で120キロメートルと意外に近い。秋元さんはすぐに社内にあったパンの缶詰を集め、トラックに乗せて運ぶことにした。それでは数が足りないため、購入先の自治体に声をかけると、東京都中央区、稲城市、千葉県浦安市などが備蓄していたパンの缶詰を、直接送ってくれることになった。

 これらは避難所で役立てられたほか、長岡市内の学校給食の代わりになるなど、大活躍を果たす。そのことがニュースになると、アキモトには全国から多くの注文が押し寄せた。

 もう一つ、パンの缶詰が広く世に知られた理由に、宇宙飛行士の若田光一さんが宇宙に持って行ったことが挙げられる。宇宙からの映像で、缶詰を開けてパンを食べる若田さんが映し出されたのだ。

 パンの缶詰は、長い時間をかけて全国の自治体や学校などにも数多く収められるようになった。しかし、取引先である神奈川県の某市役所から掛かってきた電話に、秋元さんは衝撃を受ける。

 「3年前に購入したパンの缶詰、賞味期限が近づいたので新しいものに入れ替えますね。その代わり、古いものをそちらで処分してもらえませんか」

 「えっ、処分ですか?」

 秋元さんは耳を疑った。賞味期限の前なら、持って行ってくれる人や食べたい人はいくらでもいるはずだ。しかし、担当者は賞味期限ぎりぎりの上、税金で購入したものを勝手に配るわけにはいかないと言う。大量の缶詰の処分は産業廃棄物扱いになり、秋元さんが見積もりを取ってみると1缶あたり70~80円することも分かった。

 結局、市役所に缶詰の行き先を考えてもらうことにしたものの、モヤモヤとした思いは消えなかった。備蓄食として販売したパンの缶詰は、必ず賞味期限が来る。そのとき製造元としてどうすればいいのだろう。結果として捨てられてしまうものを作ってしまったことへの、自責の念も生まれていた。

 「救缶鳥」プロジェクトができるまで

 賞味期限を迎える缶詰の使い道について、考えるきっかけになった出来事がある。それは、2004年に起きたインドネシアのスマトラ島沖地震だ。その直後、スリランカで日本語教師をしている秋元さんの知り合いから連絡があった。

 「津波で流されて何もないので、売れ残りのパンの缶詰を送ってくれないだろうか」

 ちょうど新潟中越地震が起きたばかりで、社内の缶詰は全て出払った後。それでも周囲に声をかけ、賞味期限が残りわずかなものも含めて1000缶を送った。被災地でとても役立ったとの知らせを聞き、秋元さんは気付く。日本では処分に困る賞味期限の近い缶詰も、必要とされる場所に持っていけば心から喜んでもらえるのだ、と。

 この気付きは、缶詰を無駄にしないための行動へとつながっていった。

 もともとアキモトでは、パンの缶詰が完成したときから寄付を続けてきた「ハンガーゼロ(NGO日本飢餓対策機構)」という団体があった。ハンガーゼロは現在18カ国55の協力団体と共に、アジア、アフリカ、中南米など、開発途上国でさまざまな活動を行っている。彼らに協力してもらい、賞味期限の残り少なくなった缶詰を現地に運べないだろうかと考えたのだ。

 秋元さんは、ハンガーゼロの理事長である清家弘久さんと話し合い、パンの缶詰の回収方法、現地に運ぶ方法、輸送費をどこが持つか、などの仕組みを考えた。そしてでき上がったのが次の「保存食リユースシステム」だ。

 (1)パンの缶詰を2年間備蓄

 アキモトのパンの缶詰の賞味期限は3年。そのうちの2年間は必要な場所で備蓄食として保管する。

 (2)回収する

 企業や自治体など大口の顧客は、アキモトでリストが管理されている。2年後に声をかけて古い缶詰を回収し、新しい注文があった場合は同時に届ける。回収分の送料はアキモトが持つ。

 (3)義援先へ輸送

 回収した缶詰はハンガーゼロの拠点である大阪に集められ、船便に乗せて海外に輸送する。届け先を決めるのはハンガーゼロだが、災害が起きたときは臨機応変に決める。海外への輸送費はハンガーゼロが持つ。

 (4)義援先へ届く

 飢餓に苦しむ人びとを救う食料として、現地に届けられる。

 当初は大口顧客だけの取り組みだったが、後に個人ユーザーにもこのシステムが取り入れられた。大口の場合はトラックを一度出せば済むが、個人の場合は回収に手間もお金もかかる。しかし「食品を無駄にせず、飢餓地域に届けたい」という秋元さんの熱意が周囲の人を動かし、大手運輸会社の組織的な協力を得て、最小限の送料で回収するシステムが整った。

 大口顧客の回収と、個人顧客からの回収。両方がそろって「救缶鳥(きゅうかんちょう)プロジェクト」と名付けられ、他に類を見ない食品のリユースシステムが動き始めた。パンの缶詰が、世界へと羽ばたき始めたのだ。

 被災地や飢餓地域、世界へはばたくパンの缶詰

 現在まで、救缶鳥プロジェクトを通してパンの缶詰が届けられた国は、イラン、イラク、インドネシア、スリランカ、フィリピン、ジンバブエ、バングラデシュ、台湾、ハイチ、タイ、コートジボワール、タンザニア、ケニア、エスワティニ(スワジランド)、ネパール、バヌアツの16カ国。送った缶詰の総数は30万缶以上になる。

 秋元さんは、ただ送るだけではなく、ハンガーゼロのスタッフと共に10カ国ほど訪問し、現地の人に直接手渡している。それぞれの国で訪問するのは、小学校や母子健康センターなど子どもたちのいるところだ。

 「この缶詰、何が入っていると思う?」

 秋元さんが言うと、どこの国でも子どもたちは興味津々で見つめてくる。缶を開け、ちぎってひと口ずつ味見をしてもらうと、笑顔がパッと広がっていく。何度もそんな場面に立ち会ってきた秋元さんは語る。

 「子どもたちの満面の笑顔を見ると、この活動をしてきてよかったと思います。賞味期限を残して回収することに、多くの日本人が賛同してくれています。缶にはメッセージ欄を作っているので日本から手書きのメッセージが書かれていることも多い。日本人のやさしさを、海外に届けることができているんです」

 もちろん、パンの缶詰が送られるのは海外だけではない。11年の東日本大震災、16年の熊本地震、18年の西日本豪雨など、日本各地の災害被災地にも届けられてきた。保存ができるやわらかくて甘いパンは、多くの人の心とおなかを満たしてきたのだ。

 町の小さなパン屋だったアキモトは、世界にパンを届けることができる会社へと成長した。「救缶鳥」プロジェクトは、今や食品ロスを減らすための取り組みや、持続可能な開発目標(SDGs)を達成するための活動の先駆けとして多くの人々に認識されている。

 秋元さんは、最初から大きなことを目指していたわけではない。そのとき足元にあったミッションをすくいあげ、壁にぶつかっては乗り越えて、諦めず試行錯誤してきた、その結果が今につながっている。

 著者プロフィール

 菅聖子(すが せいこ)

 広島県生まれ。自由学園卒業。 出版社勤務を経てフリー編集者、ライターに。著書に『小さなパン屋が社会を変える 世界にはばたくパンの缶詰』『世界を救うパンの缶詰』『シゲコ!-ヒロシマから海をわたって』『子どもが幸せになる学校-横浜サイエンスフロンティア高校の挑戦』『むのたけじ100歳のジャーナリストからきみへ』『すてねこたちに未来を 小学4年生の保護ねこ活動』など。